赤池の部屋「世界一周・思い出し紀行」バックナンバー  中米後編

   中米編”後編” 目次

第37回「ワンダーランド・ニカラグア」マナグア(ニカラグア)

第38回「郵便局に行って感じたマナグアの治安」

第39回「マナグアの宿の風景①食事偏」

第40回「マナグアの宿の風景②旅行者編」マナグア(ニカラグア)

第41回「カリブ海、ロブスター食べ放題の夢」コーン島

第42回「ネスカフェとホットドッグ屋」コーン島(ニカラグア)

第43回「カリブ海の海賊①~コーン島のディスコ~」コーン島

第44回「カリブの海賊②~海岸でのひと悶着~」コーン島

第45回「ホームシック」マナグア(ニカラグア)

第46回「コスタリカの印象」サンホセ(コスタリカ)

第47回「大使館へ行く」サンホセ(コスタリカ)

第48回「球体のある風景」サンホセ(コスタリカ)

第49回「中米脱出」

第50回「長旅コラム③:旅のお金事情」

第37回 「ワンダーランド・ニカラグア」マナグア(ニカラグア)

 ニカラグアという国名を聞いて何か連想できることがありますでしょうか。何を隠そう、旅行前の僕はまったく何の予備知識もありませんでした。ガイドブックに載っていた国の歴史や観光名所(と言えるような所はほとんど掲載されていませんでしたが)について、旅行中の暇な時間に本を読み込んで少しだけ知識を得た程度のものです。つまり全くのワンダーランドというわけです。ただ、ガイドブックを読んでいるうちに、ニカラグアという名前の響きや国の歴史や背景に興味を覚え、少し長く滞在してゆっくり回ってみようと考えるようになりました。

 

 せっかくなので、どんな国なのか少し解説してみたいと思います。なにせ世界のニュースや新聞の国際欄などでもほとんど登場することがないため、どんな国なのかのイメージを持つこと自体が困難ですよね。まず地理的には地図を見ていただくと分か

 

 

 

 

 

 

 

 

やくまともな大統領選挙が行われたようですが、その後も政治をめぐるゴタゴタが続いているようです。僕は「ニカラグアは長く無政府状態にあった」と旅行中聞かされたのですが、まあ政治や警察権力がまったく機能していなかったという意味では、無政府状態と言えなくもありません。当然治安もめっちゃ悪いです。どれぐらい悪いのか、今回嫌というほど味わうことになるのですが・・・。

 

さて、前口上はこのくらいにして、旅行に戻りましょう。ホンジュラスを抜けてニカラグアの首都マナグアに到着すると、とりあえずすぐにバス停近くのゲストハウスに荷を解きました。治安が悪いため、このゲストハウスではずいぶん長い時間を過ごした気がします。朝ごはんも美味しかったですし、非常に個性的な宿泊客がたくさんいました。まずはこのゲストハウスを中心にニカラグアの事をお伝えしていくことにしましょう。(つづく)

 

※ちなみにものすごく余談ですが、現在ピアニストとして活躍している青柳晋さんはニカラグアのマナグア生まれだそうです。商社マンだったお父さんの赴任先だったニカラグアで生まれたからだそうですが、それにしてもすごい出身地ですねぇ。

る通り、北米と南米のちょうど中間、アメリカ大陸の「へそ」とでも表現できるところに位置しています。当然のことながら、太平洋とカリブ海の両方に面しています。1979年まで40年以上ソモサ一家という家族がえげつない独裁政治を敷いて国と政府(軍隊)を私物化し、ために国の開発はロクになされず、その独裁を打ち倒すためにサンディ二スタと呼ばれる民族解放戦線が組織され、革命により独裁政府は打倒されたものの、内戦が続いてそこにアメリカ政府が介入して・・・。ややこしいですよね、すみません。とにかく非常に特殊な成り立ちの国です。内戦が終結し、1990年代に入ってよう

 

 

 

第38回 「郵便局に行って感じたマナグアの治安」マナグア(ニカラグア)

 首都マナグアのバスターミナル近くの居心地の良いゲストハウスの事を書こうと思っていたのですが、まずはニカラグアとその首都マナグアがどんな街なのかイメージして欲しいので、僕が街歩きをして肌で感じたマナグアの治安について説明を試みてみます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

のような錯覚を覚えつつ(しつこいですが人口100万超の大都市です)、そのおじさんが何者なのか妙に怪しんでしまいました。ひょっとして、手練れの強盗?そう言われてみれば髭がちょっと怪しいような気も・・・。こうなってくるとどんな人でも怪しく思えてきてしまうから、人間とは情けないものです。

そのおじさんとすれ違う瞬間・・・背筋に・・・冷たい汗が一筋流れていくのを感じます。しかしながらおじさんは、いたって普通のおじさんだったらしく、通り過ぎてから何度も振り返ったのですが、ひょうひょうと歩いて遠ざかっていかれました。「ふー」昼間に街中でおじさんとすれ違う時にこんなに緊張したのは生まれて初めてです。気にしすぎかもしれませんが、街全体を覆う異様な雰囲気はやはり無視できません。これから先、悪い事が起きなければいいのですが…。

 

 中米屈指の治安の悪さを誇るマナグア。歩くと必ず強盗に遭うと言われている「魔の交差点」と呼ばれる十字路があったり、犯罪の件数がダントツだったり、その治安の悪さを示す証拠はたくさんあります。とりあえず、今回の郵便局行きは無事でよかった、と思うしかありません。つづく。

マナグアは中米第2の規模を誇り、人口100万を超える大都市のはずです。ところが絵はがきを出すために歩いて15分ほどの郵便局まで行く間、街中で現地人にも旅行者にもほとんど誰にも出会わなかったのです。一国の首都の中心街で昼間に15分も歩いて人影すら見ないというのは、尋常ではありません。これではまるでゴーストタウンです。一体100万人以上の住民たちはどこに消えてしまったのでしょうか…。

メキシコにいる時に聞いた話では、「つい最近日本人旅行者がマナグアの街中をトコトコ歩いていると後ろから石で殴られて身ぐるみ剥がされた。気がついたら頭から血を流して倒れている自分を発見した」というえげつない話も聞いていたので、もちろん周囲を見渡し、警戒に警戒を重ねながら歩いていたのですが、そもそも人っ子一人いやしません。もしかすると、あまりの治安の悪さに、住民たちも必要がない時は出歩かないような習慣がついているのでしょうか。誰にも出会わないことが逆に異様な緊張感を呼び起こし、冷や汗をかきながら郵便局にたどり着きました。もちろん郵便局には局員さんたちが働いていたので、絵はがきと切手を購入してゲストハウスに引き返すことにしました。その帰り道、木陰の道を歩いていると向うからおじさんが一人歩いてくるではありませんか!第1村人発見?まるで過疎の村に来たかのよう

 

 

 

郵便局の道すがらで見つけた(おそらく)ニカラグア革命を讃えているであろうモニュメント。ちょっと身体と足のバランスが悪い気がしますね。

第39回 「マナグアの宿の風景①食事偏」」マナグア(ニカラグア)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メニューです。どういうものかというと、パンケーキの中にバナナを入れて焼いたものに卵をまとわせてさらに焼いたものです。オムレツ状になった卵がパンケーキに絡んで、不思議な味わいを感じさせてくれました。パンケーキの中にバナナが入ったものは、そのとき初めて食べたのですが、これも不思議なくらい生地に馴染んで美味しかったのです。

 そのプレートには、さらにトマトを焼いたものがいつもセットでついて来て、それとコーヒーが付いて現地の通貨で23コルドバでした。日本円にしてだいたい200円ぐらいだったと思います。近くの食堂に行けばその半額ぐらいで現地の食事が食べられるので、昼食などはそちらに出かけることもあったのですが、いかんせん街歩きが非常にストレスを感じさせるので(つまり5秒に一度くらいは後ろを振り返りながら歩かないといけないので)なんとなく食事に出るのも億劫になり、宿に引きこもってはその「バナナパンケーキの卵付き」ばかり食べていました。

 メニューには他にも卵抜きやら、パパイヤ入りやら、そういう風なバリエーションはいくつかあったのですが、基本的にはパンケーキとコーヒーだけ、という青山一丁目のパンケーキ専門店も真っ青な徹底ぶりだったので、さすがに3食パンケーキを食べるわけにはいきません。そんなときは宿の外を行商人が通り過ぎるのを待ちます。天秤棒を抱えた行商人のおじさんが果物や食べ物を運んで売りに来るからです。だいだいはどこでも見かけるありふれたものが売られているだけですが、一度アボカド専門の行商人が来たことがありました。アボカド売りはバッチリ熟した食べ頃のアボカドを山盛りカゴに積んで持ってくるのですが、一つ注文すると、その場で包丁を使って半分にして、種を取ってスプーンを渡してくれます。そのスプーンでプリンでも食べるようにくり抜きながらいただくアボカドは、完熟で、トロッとしていて濃厚で、日本で食べるものなんて全然目じゃないってくらい美味しかったです。人通りのない灼熱のマナグアの路上でただ無心にアボカドを食べていたのを昨日の事のように思い出します。また食べたいな~、ニカラグアの行商人さんのアボカド。

ニカラグアの首都マナグアでは「サントス」という名前のゲストハウスに滞在していました。一歩外に出るとゴーストタウンのような不気味さと、肌身に感じる治安の悪さで凍りつくような緊張を強いられますが、ゲストハウスの中はロッキンチェアーやソファーがいくつも置かれた広々としたロビー(というかフリースペースのようなもの)があって、そこにレストランも併設されていたのでとても快適でした。一泊の料金は特に高くもないのですが、安宿にしては充実した設備だったのであまり外を出歩かず、しばらくそのサントスという宿でのんびりしていました。

 併設されているレストランでは気に入ったメニューがあって朝食にはいつも同じものを食べていました。それは「Panquecas de Banana y Huevo」という名前の

散歩の途中で通りかかったマナグア市内の広場。街の中心の大広場ですが、例によって人っ子一人いません。

第40回 「マナグアの宿の風景②旅行者偏」マナグア(ニカラグア)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日本人も一人いました。Hさんという一見するとジャンキーのような風貌で、絶対に普通の日本社会では馴染まない人だろうなーと思って話しかけると、本当に無類のドラッグ好きだったようで、見かけ通りの人でした(笑)。「○○産の△△がすごく質がいい」とかいうような、こんな品行方正な旅行記ではとても載せられないようなアウトローな話がどんどん出てきて、それはそれで面白かったです(汗)。そして見かけによらず(?)色々と心配してくれたりしてとてもいい人でした。日本では絶対に知り合うことのないような種類の人たちと出会うことで、今までこんな人が普通の人、とか、常識的な人、と漠然と思い描いていた事がどんどん覆されていきました。つまり、一見日本社会からドロップアウトしたような人でもいい人はいい人だし、常識人や普通の人だからと言って素敵な人とは限らない、という事を身をもって体感していったのです。まだ就職もせず、社会に出たことのなかった当時の僕にとって、この体験は結構大切だったんだろうなと今になって感じています。

 自分の事を棚に上げて言うようで少し気が引けますが、宿には「わざわざニカラグアまで何しに来てるんだろう」と思うような謎めいた旅行者がごろごろしていました。ベンジャンミンという27歳のドイツ人の一人旅の青年は、ものすごく線が細くて頼りなく見えたので、こんなに弱々しいのに、こんな強烈な国でちゃんと旅行ができるのだろうかと他人事ながらすごく心配になりました。一緒にご飯を食べに行くだけでも、要所要所でまごついていたので、すごく不安でしたが、本人はそれが本来の姿のようで、まごまごしながらも自然体、という不思議な雰囲気でした。でも彼は完全に食事代をボラれてましたけど(笑)、それも意に介してなくて、ある意味たくましいとも言えました。

 

マナグア市内にある大きな湖マナグア湖。生活用水や工業用水が垂れ流しのまま流れ込んでいるとまことしやかに言われています。澱みに澱んだ恐ろしく汚い湖でした。

そんな旅行者の中には80歳のおじいちゃんバックパッカーもいました。一体どこの国の人なのか、西洋人なのかアジア人なのかもよく分からない怪しげな風貌でしたが、100か国以上を周遊して、20か国語が話せると言っていました。しかしこのおじいちゃん、二言目にはお金の話をしていて、どこそこの国に行ってこういうことをすると儲かる、とかこれこれをしていくら稼いだ、とかそんなことばっかり話されるので少々閉口しました。でも80歳になってニカラグアのマナグアなんていう、ある意味世界の辺境のような国にバックパッカーとして滞在しているなんて、めっちゃファンキーなおじいちゃんですよね。ちょっと憧れちゃいます。彼のこれまでの80年の人生は一体どんな風だったんだろうって、知りたくなりました。そもそもどこの国の人なんだろう?そんなのもう彼には関係ないのかな(笑)。

常宿にしていたホテル・サントスのロビー。ここでバナナパンケーキを食べてました。

第41回 「カリブ海、ロブスター食べ放題の夢」マナグア~コーン島(ニカラグア)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

べラーズチェックは受け付けてもらえませんでした。財布には現地の通貨がチョロッと入っているだけです。どうしようか、しばらく迷ったのですが、靴の中に隠していた緊急用のドル札70ドルを使って支払う事にしました。これは首絞め強盗や催眠強盗などに合って身ぐるみはがされた時にパスポートを再発行したりするときのために、ドル札をビニールに包んでソールの裏に隠しておいたものです。他にもズボンのベルトをする部分を切ってその中にも100ドルほど隠してありました。中南米は何があるかわからないので、それくらいの用心はしておいた方がいいと思ったからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《コーン島についての補足》

 このコーン島に限った話ではないのですが、カリブ海に浮かぶ島の多くは、住民の構成が中米の大陸側と大きく異なります。どういう事かと言うと、中米の本土の方は先住民(インディヘナと呼ばれています)が住民の多くを占めていますが、カリブ海の島では黒人系の住民が圧倒的に多く、言語もスペイン語ではなく英語が話されています。コーン島で出会うことになる人たちもほとんどが黒人系の住民でした。彼らは遠く大航海時代に労働力として強制的に連れてこられた、アフリカ大陸の黒人の方たちの末裔です。多くの人達が大西洋上の船の中や、強制労働中に亡くなりましたが、今でも多くの方が中南米の多くの場所で暮らしています。もちろんコロンビアやブラジルのように南米大陸でも黒人系住民が多い国もありますし、コーン島のようにカリブ海の島国はその地理的特性から現在も多くの黒人系住民が暮らす場所となっています。

  中米のカリブ海に面した島ではロブスター漁が盛んで、一匹1ドル位で食べられるらしい、という事を何かの本で読んで以来、これはカリブ海に行ってロブスターを腹いっぱい食べてみたいぞ、と企んでいたのですが、いよいよその企みを実行に移す時がやってきました。ニカラグアの東方、カリブ海に浮かぶコーン島では島民がロブスター漁で生計を立てているという情報を得たので、コーン島に行けば間違いなくロブスター食べ放題だ、と意気込んで国内線の飛行場へタクシーで乗り付けました。バックパッカーらしからぬ行動ですが、リッチにタクシーで乗り付けたのはもちろん空港までの移動が怖いからです(笑)。

国内線なのに飛行機の料金はドルでの支払いになっていたのですが、手持ちのトラ

空飛ぶ酒盛り会場と化したプロペラ機。写真で見ると、記憶の中にあるイメージより更に小さかったです。こんな小さな飛行機の中で大人たちが暴れれば、そりゃ揺れますよねぇ…

さて、それで国内線のプロペラ機に乗ってカリブの島を目指したのですが、さすがは小型のプロペラ機だけあって普通の旅客機では考えられないくらい派手に揺れました。しかも機内では、まるでバスにでも乗っているかのようにおっちゃんたちが自由自在に動き回り、しまいには酒盛りが始まりました。

「おいおい、噂には聞いたことあるけど、本当に飛行機の中で酒ビンを回して酒盛りが始まってまうんやー」と妙に感心したり、そうかと思うと急に揺れて無重力になり悲鳴をあげそうになったりしているうちに島に着きました。

カリブ海に浮かぶ孤島。ロブスター漁で生計を立てる島民。なんだか期待をし過ぎた感がありますが、一体この島で何が待ち受けているのでしょうか?

小型機は色々自由が利きます。大型の旅客機ではタブーと化しているコックピットも自由に撮影させてもらえました。

第42回「ネスカフェとホットドッグ屋」コーン島(ニカラグア)

「カリブ海に浮かぶ島」という響きに騙されてしまったのでしょうか。エメラルドグリーンの海と白い砂、そして食べきれないくらいのロブスターを妄想してコーン島にやってきた僕は、完全な肩透かしを喰らう事になりました。これを肩透かしと呼ばずして何を肩透かしと呼びましょうか。というのも・・・

期待に胸を膨らませながら到着したコーン島はモンスーン(季節風)の時期に入っていたらしく、期待したカリブの海は荒れて灰色。琵琶湖の砂浜の方がよっぽど風情があります。しかもロブスター漁は終わってしまったらしく、島中探してもロブスターは影も形もありません。おまけに、旅行者が普段来るような観光地ではないため、きちんとした宿泊施設があまりなく、掘っ立て小屋のような安普請の宿で一夜を明かすことに。はっきり言ってこの旅一番のわびしさです。ああ、こういうのをわびしいと言うんやなぁと、妙に感心した気持ちに浸りながら眠りました。

一夜明けて、とりあえずコーヒーでも飲もうと思ってカフェに入ってコーヒーをたのんだらネスカフェでした。しかもあろうことか、コーヒーカップには透明のお湯が入って出てきて、ネスカフェの袋が横に添えられていました。「えっ、セルフサービスなんですか」って思わず突っ込んでしまいました。ユースホステルの朝食ならいざ知らず、喫茶店でお湯とネスカフェの袋が出てきたのは前代未聞でちょっとびっくりしました。罪深きはスイスのネスレ社でしょうか・・・。

しかしここでもまだ気を取り直して、きれいなビーチもどこかにあるはずだ、と海岸までとぼとぼ歩いていきました。果たして、海はやっぱり全然きれいではありませんでした(涙)。でも悔しいので少しだけ(誰も泳いでいない)カリブ海で泳いで、セルフタイマーで記念撮影もしてお昼ご飯を食べに行きました。日記によるとその日のお昼ご飯はアイスクリームとパン1個とビスケットを食べたようです。旅行中の食事ってだいたいこんなもんですが、それにしてもけっこう不健康ですよね。

 

 

午後からも島内をぶらぶらと散策していたのですが、なぜかホットドッグ屋台のおにいさんと仲良くなって、晩ご飯をご馳走してもらえる事になりました。屋台の営業を早々と終わらせて、プレハブが並ぶ一角のそのお兄さんの自宅に招待してもらい、そこで家庭料理を食べさせてもらいました。一体どういう流れでそんなことになったのかよく覚えていませんが・・・。その時ご馳走になったのがエビピラフ(のようなもの)です。もちろんロブスターではなく、普通の小さなエビの入ったピラフというところが皮肉と言えば皮肉ですが…。でも、この晩ご飯がコーン島で出会った唯一の素敵な出来事でした。ロブスターを追い求めて遥かカリブ海までやってきて、エビピラフで嬉しい気持ちになる…。メーテルリンクの「青い鳥」を思い起こさせるような教訓に満ちた一日でした。いや、ちょっと違うか。

カリブ海をバックにセルフタイマーで。当時は「自撮り」という発想自体がありませんでした。左奥には暗礁に乗り上げたとおぼしき廃船の姿が…。さては、カリブの海賊か?

第43回「カリブの海賊①~コーン島のディスコ~」コーン島(ニカラグア)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところがどうも様子がおかしい。そこで灯りの方でちゃんと顔を見ると、さっきのホットドッグ売りのお兄さんではなく、全くの別人でした。「あれ、なんかやばいなぁ、この人一体誰だったかなー」と、よくよく思い出してみると、この島に着いてすぐに空港のそばでお金をたかってきたヤンチャなお兄さんだったことが判明しました。ヤンチャなお兄さんは今回はお金をたかるわけではなく「ディスコに行こう」と誘ってきました。この島にディスコらしい建物は全くなかったように思えたので、この段階できっぱりと拒絶して部屋に戻るべきだったのですが、なんとなく断りにくくてついて行ってしまいました。街灯一つない真っ暗な海沿いの道を二人で歩いていきます。夜でも空いている売店(※)を通りかかったとき、「ディスコには酒を持って行かないとだめだからここでラム酒を買っていこう。俺はいま持ち合わせがないからとりあえず払っておいてくれ」と言われました。ラム酒はさすがにカリブ海の地元のお酒だけあってとても安い値段だったから良かったのですが、嫌なら断ればいいのに、あきらかに異様な雰囲気に呑まれて「NO」と言えない自分がいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

るのに気付きました。おそらくヤンチャなお兄さんだろうなぁ、何かいややなぁと思って立ち止まり後ろを振り返ると、明らかに危険な薬物でどろんとした目をした初めて見る男二人組に行く手をさえぎられました。

「げげー!あんたら一体誰やねん!?」

控えめに表現しても、人生最大のピンチ到来です。(つづく)

※中米ではどこの売店でも鉄格子がはまっています。店主が牢屋に入れられているように見えますが、強盗から身を守るために不可欠な工夫のようです。

 

 カリブの海賊に遭遇しました!・・・と言ってもジョニー・デップ扮するジャックスパロウさんに出会ったわけではなく、今回はリアルな犯罪に巻き込まれたという悲しいお話です。

コーン島でホットドッグ売りのお兄さん家族に晩ご飯をご馳走してもらって、落ち込んみがちだった気持ちが癒されて宿に帰ったその夜の事です。一日目に泊まった掘立小屋のような違法宿はあまりにも居心地が悪かったので、少しマシなゲストハウスに引っ越して来ていたので、ベランダでビールを飲んでぼんやりしていました。すると部屋をノックする音が・・・

「やれやれ、一体こんな時間に誰だろう」と思ってドアを少しだけ開けてみると、一人の黒人男性が玄関に立っていました。暗くて誰だかわからなかったのですが、僕はとっさに、さっき晩ご飯をご馳走してくれたホットドッグ売りのお兄さんだと思い込んでドアを開け、話をしようと明るい方へ進み出ました。

カリブの海賊と言えば、映画「パイレーツオブカリビアン」でお馴染みのジョニデ扮するジャックスパロウさん。

何でもない道のように見えますが、島に一つだけの飛行場の滑走路です。朝は子供たちの通学路になります。そして夜はディスコに早変わり。滑走路がディスコに利用されるなんて寡聞にして知りません。意外と定番の滑走路の利用方法なのでしょうか(笑)。

「さあ、着いたぞ」と言われて見てみると、そこは果たして昨日飛行機で到着した空港の滑走路でした。まさか滑走路がディスコに早変わりしているとは予想もしていませんでしたが、大勢の人間が踊る場所として実は意外と適しているのかもしれません。それはともかく、よく見てみると踊っている人たちの目が尋常ではありません。お酒で酔っぱらっているというよりは、もっとイリーガル(違法)な薬物が常習されているように見受けられます。どう考えても健全な雰囲気ではなかったので、というか(もう少し素直に表現すると)かなり危険な場所であることは明らかなので、さすがに僕も我に返りました。これは今すぐ宿に帰らないと絶対に危ない…危ない…危ない…。

 同行のヤンチャなお兄さんに「悪いけどもう宿に帰るわ」と言って、回れ右をしました。速足で来た道を引き返していると、しばらくして誰かが後を追ってきてい

 第44回「カリブの海賊②~海岸でのひと悶着~」コーン島(ニカラグア)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と思う暇もなく、シャツの胸ポケットを引きちぎられていました。「えっ?」何事が起きたか理解するのに少し時間が掛かりましたが、つまり胸ポケットに入っているカメラをポケットごとむしり取って盗まれたようです。しかし男たちは僕から奪ったカメラを手にヘラヘラしたままその場に突っ立っています。僕はとっさに考えました。お金を取られたのならあきらめもつくけれど、カメラにはそれまで撮った写真がかなり入っているよなぁ。それが無くなるのは痛いなぁ…。

カメラを手にした男にすきが出来た瞬間、ほとんど無意識に、僕はその男からカメラを奪い返していました。そしてなぜか英語で“Leave me alone!!!!!!!!”(ほっといてくれ)と大声で叫びながら海岸を猛ダッシュで逃げていきました。砂浜を踏みしめるビーチサンダルは「ペタペタペタペタ!」とマヌケな音を立てて激しく上下します。そして大量の砂が巻き上げられているのが分かります。縦にビリビリに破れたシャツの胸元からは、ぬるい風がスースー入り込んできます。後ろを一度も振り返ることなく宿にたどり着き、玄関のドアを勢いよく閉めて鍵をかけ、その場にへなへなと座り込みました。手には確かに奪い返したカメラが握りしめられています。今だかつて経験のないような興奮状態にあり、心拍数がいつまで経っても下がりません。結局その夜はなかなか寝付くことができず、3時頃に少しウトウトして朝の6時には目を覚まし、朝一番のプロペラ機のチケットを取って首都マナグアへと逃げるように戻っていきましたとさ。

 

(追記)それにしてもどうして逃げていくときの捨て台詞が英語で“Leave me alone!!!!!!!!”(ほっといてくれ)だったのかな、と今でも半ば呆れつつ、思い出すと赤面してしまいます。

奪い返したカメラに入っていた写真の中の一枚。皮肉なことに、僕をディスコまで連れて行ったヤンチャなお兄さんとの(ディスコに行く直前の)ツーショットが収められていました。

薬物でおかしな目をした男2人組に囲まれた、というところまで先週書きました。

状況を冷静に振り返ってみましょう。まず場所は観光客のほとんど訪れない中米ニカラグアの、さらに誰もわざわざ行こうとしないカリブ海に浮かぶ孤島コーン島。街灯もない海岸沿いの夜の道を歩いて滑走路がディスコに早変わりした場所を訪れたのですが、明らかに雰囲気がおかしいため、宿に帰ろうとしているところで危ない目をした男2人が後ろから追ってきて囲まれてしまいました。さっきまで一緒にいたヤンチャなお兄さんの姿は何故かありません。真っ暗な道の真ん中で辺りには他に人影は全くありません。背中を冷たい汗がツ――っと伝っていきます。僕の背後には黒々としたカリブの海が夜の闇に溶けています。

 

その男2人組は一言も発することなく、急に動き出しました。そして、何をするのか

 第45回「ホームシック」マナグア(ニカラグア)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ような教えがあります。それは、相手がナイフを持っている時はまっすぐ逃げて、相手がピストルを持っている時はジグザグに逃げなさいというものです。その理由は、ナイフの場合はもし仮に投げつけられても飛距離が短いので、相手から離れた方が安全になるのでなるべく早く遠ざかるべきなのですが、ピストルの場合は走って逃げる程度の距離は十分届いてしまうので、弾が当たらないようにジグザグに逃げた方が安全だというお話でした。

 閑話休題。だから今思い出しても冷や汗が出ますが、コーン島から逃げ帰ってきて、マナグアの常宿のゲストハウスに戻って来てからも、すぐに今回のことを色々と考えました。というか考えないわけにはいきませんでした。これから南米に向かう予定をしていたけれど、コロンビアもブラジルも、ニカラグアよりずっと危険が多いと聞いているし、本当にこのまま旅行を続けていて大丈夫だろうか…と。早い話が、生まれて初めてホームシックにかかったのです。自分は一体どこにいるんだろう、ニカラグアって一体どこやねん?俺はなんでこんなところにたった一人でいるんやろう?・・・と。

 その当時の日記には、「一度日本に帰った方がいいんじゃないだろうか」という極めて弱気な事も書かれています。しかしまあジタバタしてもしょうがないので、とりあえず心と身体を休ませることにしました。なるべく何も考えないようにして、ゲストハウスに併設されている食堂でバナナと卵のパンケーキを食べたり、昼寝をしたりアガサ・クリスティを読んだりしながらのんびり過ごしたりしてみました。すると少し気持ちが戻ってきて、とりあえず次の国コスタリカまでは行ってみようと思えるようになりました。

 そこで、ニカラグア滞在の予定を大幅に切り上げて、荷物をパッキングし、コスタリカの首都サンホセまでのバスのチケットを手配して、整理のつかない気持ちを抱えたまま長距離バスに乗り込みました。

カメラごとむしり取られて、その後奪い返したシャツ。律儀にポケットごと奪い返しているんですねぇ。戒めとして(?)縫い合わせて今も大切に着ています。

 先々週から2週に渡って書いてきたコーン島での強盗(未遂?)事件のことは、今でも時々思い出します。あの時着ていた引きちぎられたシャツは、その後すぐに簡易の裁縫セットを使って縫い合わせたのですが、十数年経った今でも夏になると時々着ています。そしてこのシャツを着るたびに嫌でもあの時の事が思い出されるのです。

 そもそも中南米で盗られたものを奪い返そうとするというのは基本的には自殺行為です。たまたま相手に反撃する能力(余力?)が無かったので何もされませんでしたが、本来は盗られたものは諦めてとにかく身の安全を最優先にするというのが絶対的なセオリーです。仮に相手が凶器を持っていた場合は殺されていたかもしれませんし、僕が殺されても誰も気付かない状況にいたわけですから。ちなみに治安の悪い国で強盗から逃げる時は、相手の持っている凶器によって逃げ方を変えるという冗談の

 第46回「コスタリカの印象」サンホセ(コスタリカ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いってもグアテマラ、エルサルバドル、ニカラグア、と昼間に街を歩くだけでも冷や汗と緊張を強いられていた身としては、こんな当たり前の光景がやたらと眩しく、そしてありがたいものに映りました。さらに言えば、日本の治安の良さに至っては中米の現実とあまりにかけ離れていて信じがたいほどです。とにかく肩の力がふっと抜けた気持ちになりました。

 

 



 

 

見るからに平和なコスタリカの首都サンホセの街並み。ここを歩いていて、大学時代によく行っていた吉祥寺の街並みを思い出しました。

 逃げるようにニカラグアを出国して、コスタリカの首都サンホセまでたどり着きました。ガイドブックに載っていた市内の「ペンション・オトヤ」という名前の安宿に荷を下ろして街を歩いてみることにします。ふらふら街を歩きながらはっきり感じたのは、ここは良い意味でごく当たり前の都会だということでした。どういう事かというと、他の中米の都市より明らかに治安が良いことが肌身にも感じられる落ち着いた雰囲気があることです。街角などにライフルやマシンガンを小脇に抱えた軍人さんが立っていることもありません。きれいな身なりをした家族連れやカップルが(日本の街と同じように)散歩や買い物を楽しむ姿を中米に入ってから初めて見た気がします。普通に日本で暮らしていれば、そんな当たり前の光景が気になったりはしないのでしょうが、何と

ひとつだけ他の都会と違う点があるとすれば、異常にハトが多かったこと。軍隊を持たない永世中立国であるコスタリカだけあって、平和の象徴のハトが多かったのでしょうか。

ドミノゲームの風景。単純ながら結構ハマりました。

※とはいえ、治安の悪い地区もありますし、夜の街歩きはいずれにしても危険が伴います。渡航される際は充分注意して下さいね。

 

泊まっていた安宿がチャイナタウンの隣にあったので、サンホセに滞在中は毎日のように中華のテイクアウトばかり食べていました。美味しかったのは塩焼きそばです。さすがにチャイナタウンは世界中どこにでもあるので、アジアの食べ物が恋しくなったときは、(日本食は高望みでも)中華料理ならどこででも食べられたのがありがたかったです。ただ、本場の麺が手に入らない時に、焼きそばや汁そばの麺の代用品としてスパゲッティを使うのだけは閉口しましたが…。ここ、サンホセの中華街ではきちんと中華麺を使ってくれていたので、たいそう美味しかったです。

 夜は、安宿の他の住人(現地コスタリカ人と2人のデンマーク人)に教えてもらって「ドミノ」というゲームをしました。ドミノというゲームはドミノ倒しに使う例の板状のものを使って遊ぶゲームです。ルールは、サイコロの同じ目同士の牌を並べて置いていって、手牌が全てなくなれば勝ちという結構シンプルなものです。こういうゲームは世界共通で楽しめるので外国人旅行者との交流には非常に良かったです。

 そんなこんなでコスタリカでの日々は平和に過ぎていきました。

 第47回「日本大使館へ行く」サンホセ(コスタリカ)

 もし手紙を送ることがあったら、コスタリカの首都サンホセの日本大使館留めで送ってほしい、と日本の友人たちには伝えていました。とはいっても、時はインターネットがじわじわと普及し始めていた2000年代前半。普段の連絡はhotmailなどの無料のEメールサービスを使えば連絡が出来るようになっていたので、大使館留めで手紙を送ってもらう必要性はあまりなくなっていた時代に突入していました。緊急の連絡が来ることはないので僕としてもあまり差し迫った用事ではなかったのですが、普通に旅行をしているとあまり日本大使館に行く機会もないので、手紙が来ていなくてもとりあえず行ってみようと思い、少々距離がありましたが歩いて行ってみることにしました。

 1時間半ほどサンホセの街をうろうろして大使館に到着。通りの内側のビルの高い階にありました。大使館の方から無事手紙を受け取り、帰ろうと思ったら日本語の本がずらっと入った本棚が目に入りました。日本の漫画も置いてあって、浦沢直樹という漫画家の『YAWARA!』という有名な柔道マンガが全巻そろっているではありませんか。日本語に飢えていたわけでもなかったのですが、なんとなく手に取って読み始めたら、いつの間にか読みふけっていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でおられて、日本に帰る気はないそうです。2か月ほど前に子供も生まれたということで、とても幸せそうに見えました。感謝の気持ちを抱くとともに、僕は生まれて初めて、心の底から「いやはや、いろんな人生があるんやなぁ」としみじみ思いました。ほんの数時間の出会いでしたが、出会ったばかりの人からの身に余る親切がやたらと身に沁みた、日本大使館訪問だったのでした。

お世話になったTさんご夫婦。全くの異国でこういう親切を受けるとは思ってもみませんでした。その節は大変お世話になりました。

4巻まで読んだところで、不意に声をかけられました。コスタリカに移住しているTさんという日本人の夫婦でした。サンホセ市内の高級ホテル内の「FUJI」といいう日本食レストランでコックをされているそうで、その日は海外就労や滞在の何かの手続きで大使館に来られていたようです。一人でぽつんと座っていた僕を不憫に思われたのでしょうか、声をかけてくれて、話をしました。それだけでにとどまらず、車で街の中心まで送って下さった上に、お昼ごはん(チキンのサンドイッチ)までご馳走になりました。

道すがら、そしてご飯を食べながら、今までの僕の旅行の話や彼らのコスタリカでの暮らしなど色んな話をして、お礼を言って別れました。彼らはサンホセに定住するつもり

 

 

 

 

 第48回「球体のある風景」サンホセ(コスタリカ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

までに200個ほど見つかったそうです。中には最大誤差0.2%、つまりほぼ真球に近いものもあり、いつ、だれが、何の目的でこんな球体を200個以上も作ったのかは全然わかっていないそうです。一応西暦300年から800年ごろに栄えたディキス石器文明の頃に作られたとウィキペディアには書いてありました。

大小様々の石球が置かれたコスタリカ国立博物館の中庭。芝生の上に気持ちよさそうにゴロゴロ転がっていました。

 日本にいる時に、とある本でその存在を知って以来どうしてもじかに見てみたかったものがコスタリカにありました。それはスペイン語で「ラス・ボラス・グランデス(大きな玉)」と呼ばれるものです。通称「コスタリカの石球」とも呼ばれているそれは、サンホセ市内の国立博物館の中庭に展示されているとのことなので、行ってみました。

 で、どんなものだったかというと写真の通り(笑)、まさしく石の球体でした。ただ、庭に謎の石球がいくつもゴロゴロ転がっている光景をイメージしていたのですが、国立博物館には残念ながらそれほどたくさんは展示されていませんでした。そのかわり、街中をうろうろ歩いていて、豪邸や大会社の庭などにそれらしき石の玉があるのを何度も見かけました。あれが全部本物なのか、それともレプリカなのかパッと見た目には分かりませんでしたが、資産家や銀行などが金に物を言わせて購入したのだとしたら、ちょっとした成金趣味ですね…。

ちなみに「石球の中に黄金が入っている」という噂が流れたため、いくつかが真っ二つに叩き割られたようです。文化財なんだからもうちょっと大事にしたらいいのに、とも思ったのですが、さすがに現在では持ち出しや売買は、法律で禁止されているそうです。もちろん叩き割るなんてもってのほか、のはずです。

なんでも1930年代の初めころにコスタリカ国内の密林で発見されたらしく、直径が

2センチほどの小さなものから、直径2メートル、重量2トンを超えるものまで現在

 

 

 

 国立博物館からの帰りにスーパーマーケットに立ち寄って食パンとバナナとチーズを買いました。それで宿に帰ってチーズサンドイッチとバナナサンドイッチの夕食をとりました。その時買った食パンが、昔タイ旅行をしたときにもバンコクで売られていたBIMBO(ビンボと読みます)という製パンメーカーの物でした。「ビンボ」という響きが非常に印象的だったのでよく覚えているのですが、コスタリカでもタイでも売っているなんて、実にインターナショナルなパン会社だなぁと思って帰って調べてみると、もともとはメキシコのパン会社だったそうですが、なんと2010年にアメリカのパン会社を買収して世界最大のパン会社になったそうです。ヤマ○キパンをも凌ぐその規模は恐ろしいばかりですが(笑)、数か月放置しても全くカビないというもっぱらの噂です。いやー大手メーカーのパンが添加物ジャブジャブなのも、これまた世界共通ですね(汗)。

博物館内で一番大きかった石球はこんなサイズでした。ちなみに写真に写っているのは、博物館で出会った日本人留学生の青池くん。

世界の様々な国のスーパーで販売されているパン、BIMBOのパン。かわいい白クマちゃんのマスコットにだまされてはいけません。

 第49回「中米脱出」サンホセ(コスタリカ)

 なんとなく始めの頃に思い描いていたイメージでは、アメリカ合衆国から南下を開始して最終的にはパナマまでたどり着いて、パナマから南米大陸に飛行機で飛ぶつもりをしていました。「世界の大きさを体感するためにも、できるだけ陸路で移動しよう」と思っていたからです。いやー考え方が若々しいですね(笑)。今だったら、楽をして飛行機をバンバン使いそうですが、ひたすら陸路にこだわるなんて若さの特権だったと思います。しかし、さすがにパナマから南米のコロンビアへは陸路での入国が(普通の旅行者には)出来ないそうなので、パナマからは空路やなぁと考えていたのです。しかし、ニカラグアでの恐怖体験が尾を引いて、中米をこれ以上陸路で南下する気力を失っていました。

 そういうわけで、コスタリカから南米に飛んでしまおう、というのがその時の僕の結論です。問題はコスタリカから南米のどの国へ飛ぶかでした。選択肢はおおよそ次の4つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アメリカのロサンゼルスからコスタリカのサンホセまで、バスと船で7か国を通過した「北中米カリブ海地域」の陸路の旅はこうしてあっさりと幕を下ろしました。2016年1月からはついに、というかやっと、というかようやく、というか、「南米大陸編」がスタートします。

1年間ご愛読ありがとうございました。来年も細々と書いていきますのでよろしくお願いします。

 

空港近くでみつけたカブトムシ。

選択肢①コロンビアへ

 コロンビアは当時、今よりもかなり治安が不安定でした。反政府ゲリラがバスジャックする時はバスをまるごと燃やしてしまう、とか、腕時計や指輪をしていると腕や指ごと切り落として盗まれる、とか、およそ平和な日本では想像もつかないような犯罪に巻き込まれる恐れがあり、世界のリアルな治安事情に詳しい商社などの駐在員も「コロンビアだけは危ないよ…」と渡航を止めようとするそうです。そこまで聞いてしまうと、選択肢から外さざるを得ません。

 

選択肢②ベネズエラへ

 ベネズエラはアメリカ文化の影響が強いからか、南米大陸で唯一野球の人気が高い国です。世界で一番高低差のある滝「エンジェルフォール」や、ロストワールドと呼ばれる「ギアナ高地」を擁し、自然のスケールの大きさは他の大国に引けを取りません。ただし、ベネズエラから陸路で他の国に行くとなると熱帯のアマゾンに突っ込むか、広大なブラジルの海岸線を踏破しなくてはいけないので、南米周遊がちょっと難しくなるかな、と思い選択肢から外しました。

 

選択肢③エクアドルへ

 赤道という意味の名を持つエクアドル。その名の通り赤道の真上に立てます。本当は南米旅行をエクアドルから始めようと考えていました。しかしその時すでに5月半ば。思いのほか中米でのんびりしまっていたので、少し時間的な制約が出来ていました。一番行きたい国に行く事が大事だと痛感していた身でもあったので、エクアドルも違うかなぁ、ととりあえず除外。

 

選択肢④ペルーへ

 そんなわけで、何はさておき、マチュピチュ遺跡に行きたかった僕としては、とにかくペルーに飛んでしまおうという結論に達しました。善は急げというわけで、早速サンホセからペルーの首都リマまでの航空券を手配し、そそくさとサンホセ郊外の空港に向かいました。空港までの道すがら、メスのカブトムシが道路をせっせと横断していた姿が妙に印象に残っています。そういえばコスタリカは世界一の多種多様なカブトムシの生息地じゃなかったかな、世界最大の「ヘラクレスオオカブト」とかがいなかったかなぁ・・・。でもこいつはどこにでもいるようなごく普通のカブトムシやなぁ・・・。

 

 

 

 第50回「長旅コラム③:旅のお金事情」

 あけましておめでとうございます。この連載も無事2年目に突入することになりました。今年はカレンダーの関係でお正月休みが短かったのですが、お正月と言えば昔はお年玉が楽しみでした。というわけで(どういうわけで?)今週は長期旅行のお金にまつわるお話をちょっと書いてみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なければいけません。財布を盗られるだけなら現金だけの被害ですみますが、最近は強盗の皆さんも色々な事に詳しくなっていて、日本人旅行者がどこにパスポートやカード類を隠しているか、という事も知られている場合があります。仮に身ぐるみはがれた場合、パスポートを再発行したりするために日本大使館に行くお金さえなくなっている恐れがあります。パスポートの再発行にもお金がかかります。カードやTCだって再発行しないといけません。ではどうしたらいいでしょうか?僕はジーパンと靴にそれぞれビニールに包んだ米ドル札を隠しておきました。ジーパンは、ハサミでベルトをつける部分の裏側を切ってドル札を入れて分からないように縫い付けておきました。靴はソールの裏に入れておきました。それぞれ、時々は洗っていたので、靴などは洗うときに取り出していましたが、ジーパンはたしかそのまま洗っていたように思います。何にせよ、旅行中に出会った人たちの話を聞いていると、そのような状況に陥る可能性は普通にあるように思われたので、旅行が終わるまでそうやってお金を隠しておくという状況は続けました。結局最後まで緊急のこととしてそれらのお金を使う必要が無かったのは幸運だったというより他ありません。

 

≪中米編後編・おしまい≫

シティバンクの「ワールドキャッシュ」という国際キャッシュカード。路上にATMがある国が多かったので引き出すときはちょっと緊張していました。

短期間の旅行の場合はあまり気にならない事ですが、長期旅行になると旅の資金を全て現金で持って行くというのは、かなり非現実的な選択になります。特に中南米という政情の不安定な国が目的地の場合、盗難に遭うと全財産を失いかねないので、当然の対策として現金以外の形で資金を持って行くことになります。かつてはトラベラーズチェック(以下TCと略します)が主流でした。というか、現金以外にはTCしか選択肢がなかったのです。僕も3,000ドル分のTCを日本で作っていきました。しかし、TCは手続きも大変で、しかもドルから現地通貨への両替の手間もあり、手数料もかかるので、はっきり言って不便な点が多かったです。そんな中、2000年頃から急速に普及が進んできたのが世界中で使える国際キャッシュカードです。世界中のごく当たり前のATMでカードが使えて、しかも現地通貨で出金できるので二重両替する必要もなく、しかも細かい単位で出金額が決められるので無駄がなくて非常に便利でした。僕は大手のグローバルバンクとして有名な?CITI BANKの「ワールドキャッシュ」というカードを使っていました。

おそらく同様の機能を持ったカードは色んな金融機関のものが現在もたくさんあると思うので、もしこれから海外放浪に出られる予定がある方には強くおすすめしますよ。と、なぜか宣伝(苦笑)。

 

 それはさておき、中南米ではホールドアップや強盗に遭うリスクもほかの国と比べるとかなり高くなるので、強盗に遭ったとしてもなんとか生き延びられるようにしておか

 

路上でATMからお金を引き出すときはこんな感じ。

続きの南米編ペルーはこちら!

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