赤池の部屋「世界一周・思い出し紀行」 南米①ペルー編

   南米編ペルー目次

第51回「南半球へ」リマ(ペルー①)

第52回「砂漠とセビーチェ」リマ(ペルー②)

第53回「リマ・カジノの会①前編」リマ(ペルー③)

第54回「リマ・カジノの会②前編」リマ(ペルー④)

第55回「リマ・カジノの会③前編」リマ(ペルー⑤)

第56回「リマ・カジノの会④前編」リマ(ペルー⑥)

第57回「高度順応」アレキパ(ペール―⑦)

第58回「高山病とコカの葉」クスコ(ペルー⑧)

第59回「無糖チョコレートと甘くない問題」クスコ(ペルー⑨)

第60回「インカ遺跡からの逆落とし」ティポン遺跡(ペール―⑩)

第61回「クイを喰う」ティポン遺跡(ペルー⑪)

第62回「地球の裏側からの応援」クスコ(ペルー⑫)

第63回「インカ帝国の幻影」オリャンタ・イ・タンボ(ペルー⑬)

第64回「麓の村でひとやすみ①」アグアス・カリエンテス(ペルー⑭

第65回「麓の村でひとやすみ②」アグアス・カリエンテス(ペルー⑮

第66回「自然が生み出す、粋な演出」マチュピチュ(ペルー⑯)

第67回「リャマとアルパカ」マチュピチュ(ペルー⑰)

第68回「ワイナピチュ登頂」マチュピチュ(ペール―⑱)

第69回「アンデス山中列車旅」クスコ~プーノ(ペール―⑲)

第70回「トゥルーチャ丼と圧力鍋」プーノ・チチカカ湖(ペルー⑳)

第71回「ウロス島①」チチカカ湖(ペルー㉑)

第72回「ウロス島②」チチカカ湖(ペルー㉒)

第73回「長旅コラムペルー料理考」

北米編バックナンバー1話〜17話

中米編”前編”バックナンバー18話~36話

中米編”後編”バックナンバー37話~50話

 第51回「南半球へ」リマ(ペルー①)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、それなりに覚悟をしてやってきました。リマに着いたのが夜だったこともあり、宿までの移動はかなり緊張していたと思います。特にペルーやボリビアで当時頻発していたのが、「首絞め強盗」というやたら恐ろしい響きの犯罪でした。強盗が旅行者の後ろから羽交い絞めにして、首にある頸動脈を圧迫して一瞬のうちに気を失わさせ、倒れているうちに身ぐるみをはぐという、えげつない強盗です。実際にボリビアのバスターミナルで首絞め強盗の被害に遭ったサルサ教室の先生は、「周りに地元の人たちがいるのに皆巻き込まれたくなくて、見ないふりをしていた。人がたくさんいる所でも平気で首を絞めてくる、そうなると目に映る景色がフワーッと傾いていって、次第に暗くなって気づいたら靴まで脱がされていた。ほんま、あっけなかったわ」と関西弁で話してくれました。

 そんな話を色んな人から聞いたりしていたので、南米がそれなりに危険な場所であることは認識していました。それでも南米に行ってみようと思ったのは、旅行前に読んだ本がきっかけです。その本の中で、ペルーの治安があまりにも悪くて行くかどうか迷っているという旅行者がいて、彼らはペルーに90年代に幅を利かせていたゲリラ集団のセンデロ・ルミノソ(※)が市民を1万人も虐殺している現状に恐れをなして、やっぱりペルーはやめておこうかと相談しているのですが、ある人物が次のように言ってペルー行きを勧めたのです。

「行ったらええねん。ペルーのセンデロ・ルミノソに殺されたのは1万人。でも日本では毎年それと同じ1万人が交通事故で死んでるんや。どこにいたって危険はある。それやったら行きたいところに行ったらええねん」と。

 まあ、むちゃくちゃな理屈ですし、無責任な発言でもありますが、それでも妙な説得力があり、ずいぶんその言葉に背中を押された気がします。「危険である」というファクターは、「何かをしたい」という強い想いをとめられるものではないという事でしょうか。さて、南米大陸でいったい何が待っているのか、こうご期待!

 

※センデロ・ルミノソ・・・南米のクメールルージュ(ポルポト)と恐れられた、極左反政府ゲリラ。正式名称は「ペルー共産党」ですが、あまりに冷酷なテロと暗殺を繰り返したことから、他国の共産党との関わりは無かったそうです。1990年フジモリ大統領の頃に起きたペルーの日産自動車リマ支店襲撃事件なども、彼らが起こした事件です。僕が訪れた頃はもう活動は非常に限定的になっていましたが、時々いろんな街で非常事態宣言などが出されていたので、全く活動が無いわけではないそうです。現在は旅行者が被害に遭うという事件は起きていないようです。詳しくはウィキペデアで「センデロルミノソ」を調べてみて下さい。

 

リマの教会。よく見ると建物の壁という壁に黒い鳥がびっしりとへばついています。

 さて、話は一気に南米に飛びます。パナマを経由してペルーのリマまで、一気に赤道を越えて南半球に立ちました。南半球といっても、南十字星が普通に見られるというぐらいの認識しかなかったのですが、「人生初の南半球じゃー」と、何となく凄い事をしたような感慨にふけっていました。でも考えてみれば、バリ島やオーストラリアだって南半球なわけですから、それほど地理的に遠い印象でもないのでしょうが…。

 中米はほとんど情報も無く、治安が良いのか悪いのかも分からずにうろうろして酷い目に遭ったりしていたのですが、南米は旅行前から明確に危険を知らされていましたし、グアテマラに滞在している時に南米での恐怖体験を語る旅行者が結構いたの

 第52回「砂漠とセビーチェ」リマ(ペルー②)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 使われている魚介類は、スズキや鯛(に似た魚)のような白身魚やホタテ、エビ、イカなど、日本人の好みにもろに合っていたのですごく美味しかったです。レモンの酸味がたまりません。ただ、醤油をかけて食べたいなぁという、よこしまな考えも浮かびましたが・・・。インターネットで「セビーチェ レシピ」と検索すると作り方がすぐ出てきます。割と日本にあるもので簡単に作れるので興味のある方はぜひ挑戦してみて下さい。僕も帰国後に何度か作ってみました。その時はちゃんと白ワインを用意しましたよ(笑)。

ペルーの一大観光地、ナスカへの途上。ペルーの太平洋岸は辺り一面このような荒涼とした砂漠が広がっています。

 南米大陸の西海岸、つまりエクアドルやペルー、チリなどの国がある方の海岸線は、そのほとんどが砂漠で、そこからすぐにアンデス山脈の峰々が連なっているという構図になっています。砂漠といってもサハラ砂漠に代表されるようなサラサラと砂が風紋を作る幻想的な砂漠はペルーにはあまりなくて、草木が生えていなくて岩場が続く荒涼とした大地が広がっています。はっきり言ってそんな場所をずっと車で走っているとだんだん気が滅入ってきちゃいます…。

ペルーの首都、リマはそんな砂漠に築かれた大都市です。陸はそのような(砂漠の)状態なのであまり食資源が豊富とは言い難いのですが、海からの資源は豊富です。何といっても広大な南太平洋と接しているのですから。

 そんな海の幸をふんだんに使ってペルーの人々は国民食とも言える料理を作りだしました。「セビーチェ」と呼ばれているその料理は、簡単に言えば魚介のマリネです。その日水揚げされたばかり(?)の新鮮な魚介類に塩とレモンと香草をたっぷりかけて食べます。ビールや白ワインと一緒に食べたらさぞおいしいだろうなぁと思っていましたが、一度もお酒と一緒には食べられませんでした。なぜかというと、リーズナブルなセビーチェは路上の屋台で売られている事がほとんどなのですが、「昼を過ぎたら屋台のセビーチェは食べたらだめだよ」と先輩旅行者に言われていたからです。マリネとはいえ、昼間は気温の高いリマの街中で、常温で(時には直射日光を浴びて)屋台に置かれ続けたセビーチェは昼を過ぎてから食べるとかなりの確率でお腹をこわすと恐れられていたからです。しかもなぜか朝にまとめて作ってそれでおしまい、という屋台がかなり多かったのです。朝ごはんの定番メニューなんですね。何度か、寝坊して食べそこないました(涙)。

ペルーとメキシコでは国民食として愛されている魚介のマリネ、セビーチェ。たっぷり絞ったレモンが決め手です。

 第53回「リマ・カジノの会①~前偏」リマ(ペルー③)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ノの会」なるものを急遽結成して、タクシーに相乗りして人生初のカジノに出かけました。まあ、4人もいれば危ない目に遭う事もないだろうという考えもありました。

 さて、ペルーのカジノですが、想像していたようなアウトローな雰囲気は皆無。マフィアっぽい人たちがいるわけでもなく、日本のパチンコ屋さんよりずっと雰囲気が良くて快適でした。しかもしかも、入場料がいらないのに、なぜか飲み物やサンドイッチ、煙草などが無料で配られています。どうしてこんなに大盤振る舞いなのでしょうか。それはしばらくカジノで観察してみればすぐにわかります。とにかく、ブラックジャックにしてもルーレットにしても、すぐに客が負けてしまうというか、最後にはカジノ側が勝つようにうまく出来ているんですね。ディーラー(カードを配ったり、ルーレットの玉を回したりする人たち)は、ある程度自分の思うままに客を勝たせたり、ここぞというところで負けさせたりさせることができるみたいで、勝ちそうな人も必ずいいところで負けていました。この掛け金が、無料のサンドイッチに化けているのか~と妙に感心してしまいました。

 

 リマ・カジノの会のメンバーに、僕と同じ大学(を中退して旅行している)Mくんという人がいました。彼とは非常に気が合って、日本に帰ってからも時々連絡を取り合っていました。その日ひとしきり負けて(10ドルぐらいの負けでした)カジノから帰った晩、そのMくんと二人でビールを飲みながら、カジノで絶対に勝てる方法はないか、という話を延々としていました。いやー、実にくだらないですね(笑)。国際情勢とか、食糧問題とか、まじめに話し合う話題がいくらでもありそうですが、よりによってカジノ必勝法について、ひたすら話し合いました。議論の末、対象をルーレットにしぼって、これなら必ず勝てるのではないか、という必勝プランが練り上がりました。この勝負に勝てば、旅費が楽になるかも、などと甘い空想に浸りながら、次の日、意気揚々と昨日と同じカジノに向かいました。さて、赤池とMくんの運命や如何に!?(次回に続く)

          カジノの様子

 ペルーに入国した頃には、日本を出てから2ヶ月が経過していました。怖い目に遭ったり、いろいろ観光したり、現地の人が訪れる食堂に通ったりと、ここまでまじめに観光旅行をしていたのですが、だんだんそれだけでは物足りなくなってきました。旅行(観光)自体が日常になってきてしまうからです。

「リマにカジノがあるんだけど行ってみない?」

と誘われて行ってみようかなぁとふと思ったのは、そんな風に旅が日常になりかけていたからかもしれません。カジノだったらラスベガスにも有名なものがありますが、ペルーのカジノと言われると一体どんなところなのか想像もつきません。なんか面白そう!そんあわけで、その時泊まっていた安宿にいた日本人の男四人で「リマ・カジ

 

 

 

第54回「リマ・カジノの会②~後偏」リマ(ペルー④)

 ルーレット場のこのような図面が描かれたテーブルに直接チップを置いて賭けていきます。

(先週のあらすじ)ペルーの首都リマで知り合った日本人四人で結成したリマ・カジノの会。そのメンバーの一人Mくんと二人でカジノで必ず勝てる「ルーレット必勝法」を徹夜で考えるという、実に馬鹿馬鹿しい夜が明けて、仮眠をとったあと意気揚々とカジノに向かいましたとさ、というのが先週までのお話。

 

 さて、一体どうなったか書く前に、カジノにおけるルーレットというゲームについて簡単に説明しておきます。ルーレットはまずカジノ側の人間であるディーラーがルーレットの玉を回すところから始まります。その玉がぐるぐると1分ぐらい回り続けるのですが、その間にお客さんは玉の入る場所を予想してチップを置いていく、というシンプルなものです。画像にあるように1~36までの数字の赤もしくは黒のボックスと「0」「00」という緑色のボックスのどこに玉が入るかを予想するゲームです。赤と黒のどちらの色に入るかという賭け方もできますが、「0」か「00」に玉が入ると、赤黒どちらに賭けても負けになってしまいます。ルーレット場のマットに実際にチップを直に置いて賭けたりしていると、なんだかジェームスボンドにでもなったような気持ちがしてテンションが上がりました。

特にルーレットが楽しくなってきたのは、1枚のチップを数字の1と4の真ん中に賭けたり、4つのマスの中心に置いたりしてもいいと分かってからです。こうして賭けると、配当は小さくなりますが、グッと的中する確率が高くなります。なけなしの数枚のチップを、あちこちに散らして置いていくと、ゲームの要素が複雑になってきて、自分でも気付かないうちに思わぬ勝ちを拾っていてディーラーさんがチップをこちらにバーッとくれたりして、小躍りしたりもしました。

 

先週も書いた通り1日目はそうやって適当にチップを置いて、勝ったり負けたりしていたのですが、そういう賭け方ではやがて手持ちのチップは目減りして、ジリ貧になってしまいます。そこで、同宿のMくんと徹夜で考えた「カジノ必勝法」が出てくるのですが、この必勝法、実に単純な話です。1ドルが最少掛け金のルーレットなら、赤か黒にまず1ドル賭けます。これで外れたら、次はまた赤か黒に2ドル賭けます。また外れたら、次も赤か黒に4ドル賭けます。そうして負けたお金の総額+1ドルずつ掛け金を増やしていくと、2分の1の確率でいずれ勝ちます。というか勝てるはずです。そうやって1ドルずつ増やしていけば、宿賃やご飯代くらいにはなるはず。およそギャンブルとは思えない堅実な財テクですねぇ。これなら日本のコンビニでバイトしたほうがよっぽど収入になります。しかし、それはそれ、これはこれ。実際にカジノで試してみることにしました。はたして「濡れ手に粟」となったのでしょうか。(次回につづく)

第55回「リマ・カジノの会③」リマ(ペルー⑤)

玉は無情にも緑色の「0」のボックスへ・・・。

(先週までのあらすじ)同宿のMくんと徹夜で考えたカジノ必勝法を使ってコツコツ1ドルずつ勝っていくという作戦。実際にカジノで通用したのでしょうか…、というお話。カジノについて長々と書いてしまって本当にすみません。ギャンブルに興味ない人もきっといるでしょうに…。

 僕自身も特別ギャンブルが好きなわけではありませんが、カジノという非日常の空間が結構楽しくて、再び訪れてしまいました。そしてまっすぐにルーレットの台に向かい、Mくんと二人で「カジノ必勝法」を試してみることにしました。まず1ドルを赤か黒に賭けます。外れたら負けたお金の総額+1ドルを賭けていきます。赤か黒に賭けるという事は的中の確率は50%なので、まあそのうち的中します。的中したらまた1ドルの掛け金からスタートして、的中するまで掛け金を増やしていきます。当たったらまた1ドルの掛け金に戻す…。始めのうちは、そんなふうにして調子よく的中していきました。5度、6度と勝っていくとだんだん気分も良くなってきます。「おお、この方法は勝てるじゃないか!」

しかし妙な賭け方をしていてディーラーさんに目をつけられたのか、ある時を境に突然僕たちが賭けたのと反対側の目が頻繁に出るようになってきました。前にも書きましたが、ルーレットの玉を投じるディーラーさんは、ある程度思った所に玉を入れることができるみたいでして、裏をかいたりわざと勝たせたり、様々な駆け引きが行われているみたいです。連続で負けると、1ドル→2ドル→4ドル→8ドル→16ドルという感じでどんどん掛け金を大きくしていかなくてはいけません。16ドルと言えば物価の安いペルーでは宿代を除いた1週間の生活費です。それがさらに負けて32ドルになったときは2人とも足が少し震えました。赤か黒のどちらに賭けたか覚えていませんが、そろそろ的中してもいい頃だろう、と祈りながら賭けたのですが、ルーレットの球は無情にも緑色の「0」のボックスに収まりました。赤も黒もアウト。「0」を予想した人以外全員没収です。というか、この時は誰一人として「0」に賭けている人はいませんでした。僕たちだけでなく、他の現地人のお客さん達も「なんてこった」みたいな感じで口々に「OH!」とか「Que lastima!(なんと残念な!)」とか言いながら、ため息を漏らしています。僕はこの時ディーラーさんが狙って「0」に入れたんじゃないかと思えてなりません。僕たちみたいな少額の掛け金の客にそんなことするわけないよなぁと最初は思っていたのですが、余りにも図ったように連続で負けていくので、カジノサイドにとって都合の悪い賭け方をする客に対する警告のつもりで入れたのでしょうか。それとも、ここが勝負の分かれ目と思ったのでしょうか。実際、大勝ちしていた人たちも勝負所を外してシュンとしてしまいました。

僕たちは、というと6回連続で負けてしまいました。このままでは、取り返しのつかない事になってしまう(こんなことを書くと、数千円の話なので大袈裟かもしれませんが、バックパックカーにとっては切実…)。無事、笑顔でカジノを出ることはできたのでしょうか?(さらに次回へつづく)

 

 

第56回「リマ・カジノの会④」リマ(ペルー⑥)

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(先週までのあらすじ)同宿のMくんと徹夜で考えたカジノ必勝法を使ってコツコツ1ドルずつ勝っていくという作戦。実際に試してみると、ディーラーさんに弄ばれている(のかどうなのか)6回連続で負けてしまって完全にあとがなくなってしまいました。しつこく続いたカジノ編も今回で最終回。さてどうなったのでしょうか。

 

6回連続で負けてしまったので、次に賭ける金額は64ドルです。ここまでで総額63ドルの負けになっているので、勝っても1ドルしかプラスになりません。まさか1/2の確率の勝負に6回も連続で負けるなんて予想だにしていませんでした。ここに至って、たった1ドル勝つために64ドルという大金を賭けるなんて精神的には全く割に合わないことに気づきました。食事代が1~2ドルで済むペルーでは50ドルもあれば宿代を除けば数週間は楽に生活できるのです。さらに言えば100ドル(当時のレートで約13,000円)はペルーでの1か月のホテル代にも相当します。ここで外したらもう手持ちの現金がない・・・。1回の掛け金の上限も200ドルと決められていて、どちらにしてもあと2回負けたら負けを取り戻す手段はありません。Mくんと顔を見合わせて、冷や汗が背中を伝っていくのをはっきりと感じました。

えー、まあ、結果的はこの64ドルの時点で的中しました。本当にホッとしました。ここでやめたので結果的には7~8ドル勝って終わることができたのですが、この「カジノ必勝法」は少なくともあまり余裕のないバックパッカーには全く不向きであることが分かりました。石油王みたいにものすごく資金に余裕があれば別かもしれませんが、そんなに余裕のある人が1ドルずつ増やしていくなんて、そんな辛気くさいことしませんよね。結局ギャンブルに「必勝法」は無いのだということを、身をもって学んだカジノ行でした。

 

 数日後、メンバーの一人が日本に帰ることになり、Mくんも別の国に行くという事で、「リマ・カジノの会」はあっさり解散してしまいました。僕もなんとなくリマを出て、次の町アレキパへむかうことに決めました。

カジノについて今思うのは、カジノはお金を儲けに行くところではなくて、「数時間のゲーム代を払って楽しむ、ボーリング場みたいなところ」なのじゃないかということです。ボーリング場では何ゲームか遊んでそのゲーム数に応じていくらかのゲーム代を払いますよね。カジノもそれと同じで、ルーレットやブラックジャックなど手に汗握るゲームを何時間か楽しんで、それに応じたゲーム代を払う場所と割り切ったほうが幸せなんじゃないかと思いました。だって勝てませんから。実にうまく客が負けるようにできているみたいですよ、ほんとに。

 

リマを出てアンデス山脈へと入っていきました。そこではバスの車中からもこんな感じの風景にたくさん出くわしました。カジノでのんびりしている場合じゃなかったですね(苦笑)。

第57回「高度順応」アレキパ(ペルー⑦)

 バスでリマを出発!目指すはかつてのインカ帝国の首都クスコです。さて、ここで問題になってくるのがクスコの標高です。アンデス山中にあるクスコは標高3400m。海抜0mの海沿いのリマから一気にクスコまで移動すると、たいていの旅行者は軽い高山病にかかってしまいます。そこで時間だけはたっぷりある僕のようなバックパッカーは、標高2000mぐらいの町に少し滞在して身体を高い場所に慣らす、いわゆる「高度順応」をして高山病を予防したりします。今回の旅では、次の目的地クスコからボリビアのラパス(4000m)、そして最後はウユニ塩湖の近くのサンフアンという5000mを超える村まで、ドンドコ標高を上げていくことになるのですが、最後まで高山病の症状は出ませんでした。すこしずつ高度を上げていくと、最終的には5000mを超える場所で過ごしても高山病にならずに過ごせることを身をもって証明したことになります。ちなみに飛行機で一気にクスコまで飛んだ旅行者の多くは、頭痛などの軽い高山病に悩まされるのですが、症状の酷い人は最終的には命に関わる事もあるので注意が必要です。よく言われたのが、もしクスコで重い高山病にかかったらすぐにマチュピチュに行きなさいというアドバイスでした。標高2000m台のマチュピチュ遺跡まで降りていくと、高山病の症状は嘘のように消えてしまいます。そこに何日か滞在し、ついでにマチュピチュ遺跡をじっくり観光しているうちに高度順応が完了するという、忙しい現代人には夢のような贅沢なお話です(笑)。

 

 さてその高度順応のために滞在したのが、標高2335mのアレキパという町です。なんとなく1泊して、なんとなく町をブラブラ散策して、なんとなく出ていったところなのであまり強い印象のない町ですが、帰国後に調べてみると実は見どころいっぱいでした(涙)。インカ帝国の4代皇帝によって築かれたこの町、ケチュア語で「Ari quipay(ここに住みなさい)」と皇帝がお告げになったことが名前の由来だそうで、ユネスコの世界文化遺産にも登録されていて、マリオ・バルガス・リョサという南米を代表する大作家の出身地でもあるそうです。マリオ・バルガス・リョサは風変わりで幻想的な作風で知られていてノーベル文学賞も受賞しています。僕も何冊か読みましたが、ハチャメチャなストーリーなのに読みやすくてとても面白かった記憶があります。小さい図書館にもよく置いてありますので、興味のある方はぜひ。おすすめは『フリアとシナリオライター』という小説で、キアヌリーブス主演で映画にもなっています。さて、話が脱線してしまいましたが、そのアレキパ、観光客に一番人気なのは野生のコンドルを観ることができるというツアーです。サイモンとガーファンクルで一躍有名になったフォルクローレの名作『El condor pasa(コンドルは飛んでいく)』のあの憂愁のメロディーを思い浮かべていただくと、アレキパの町の雰囲気が少しは伝わるのではないでしょうか。

 

インカ帝国時代から脈々と受け継がれている段々畑。高度を上げていく中、バスの車窓からこのような風景を何度も見ました。

『コンドルが飛んでいる』の図。こんな感じでアンデスの嶺を越えていくんだろうなぁというベタな画像ですね。残念ながら、僕はコンドルを観ることはなかったので、これはただのイメージです。あしからず・・・。

第58回「高山病とコカの葉」クスコ(ペルー⑧)

 クスコは標高3400m。先週も書きましたが、このくらいの標高の場所だとたいていの人が軽い高山病にはなります。僕は少し高度順応をしてからクスコに入ったのでほとんど症状はあらわれませんでしたが、それでもとにかく空気が薄い!クスコは坂が多い街だったのですが、坂をほんの数十メートル登っただけで、息切れが激しくなってしばらく休んでいたぐらいです。始めは運動不足で体が急激に衰えたのかと思いましたが、周りの旅行者も結構しんどそうなので、これは酸素が薄くて身体への負荷が低地とは比べものにならないぐらい高いからなのだと納得しました。しかし、現地のペルー人たちは全然つらそうではありません。まるで、よれよれのバックパッカーである我々をあざ笑うかのように、平気で坂道をスタスタと登っていきます。あれ、そんな速さで登っていくのは絶対無理なんですけど・・・。

これは一体どうしたものか、と思って色々調べていくと、現地の人達が常用している「コカの葉」というものがあることが分かりました。このコカの葉、なんと精製すると悪名高い麻薬であるコカインになってしまうのですが、普通の葉っぱの状態では違法ではないらしく、街角で普通に売られています。「えー、コカインの原料が普通にそこらで売ってるんかな。えらい国やなぁ」と最初はびっくりしたのですが、現地のペルー人は高山病を予防するためにこのコカの葉を石灰と一緒に口に入れ、くちゃくちゃと噛んでいるのです。「これを噛めば、坂道スタスタも夢じゃないはず」と思い、早速購入して(繰り返しますが違法ではありませんからね)、試してみることにしました。現地の人の真似をして、くちゃくちゃ噛んでいると、しばらくして口の中がしびれてきました。え、これ大丈夫かなぁ・・・。と心配になってきたのですが、かつて経験したことがある感覚でもあります。よくよく思い出すと、歯医者の治療で麻酔をかけられたときによく似ているのです。しかし、酸欠状態は相変わらず。坂道ダッシュはできそうにありません。実はコカの葉の効能は、石灰と一緒に噛むことで化学反応が起き、麻酔のような効果が出て感覚がマヒし、高山病の症状が緩和されるというものでした。

結局、何週間か高地で生活することで身体が自然に酸素の薄さに慣れていき、多少無理をしても大丈夫にはなりました。それでも全力で走ったりするとあっという間にバテバテになってしまったので、もし強盗とかに追いかけられたら絶対逃げられないなぁと思い、外出する際は5mに一度ぐらいずつ後ろを振り返って誰もいないか確かめるようにしていました。え、コカの葉はどうしたかって?それ以降は利用しませんでしたよ。でも高地の炭鉱で働く人なんかは今でも必需品だそうです。

コカの葉。ペルーでは大丈夫ですが、日本へもアメリカへも持ち込みはもちろん禁止です。僕は知らなかったのですが、直接噛むよりもむしろコカ茶、つまりお茶として飲まれる方が一般的みたいです。

第59回「無糖チョコレートの甘くない問題」クスコ(ペルー⑨)

世の中には人工甘味料のステビアや、今話題のマルチトール(※)など、砂糖以外のもので甘みを付けたカロリーの低い(ゼロではない)無糖チョコレートいうものも散見されるようになりました。甘くて美味しい分だけ、食べ過ぎた時の罪悪感も最高レベル?のチョコレートが、「無糖なのに美味しい」と言われれば、それは(特に女性にとっては)とても嬉しいものなのでしょう。

さて、話をペルーに戻しまして、ペルーのクスコのスーパーマーケットで自炊用の食材の買い出しをしている時に、巨大な板チョコを発見しました。なんだか自然志向な包装で美味しそうに見えたのと、けっこうお買い得だったので、つい魔がさして買い物カゴに入れてしまいました。それにしても巨大だったので、一人では到底食べきれない、と思い同じ宿の旅行者たちに「こんなチョコレートを買ったのでみんなで食べましょう」と呼びかけて封を切りました。どう見ても美味しそうなチョコレートなのですが、みんな食べた端から「まずい~」と悲鳴を上げていきます。僕も一口食べて思わず天を仰ぎました。もうお分かりですね、そう、このチョコレートはカカオ100%の正真正銘の無糖チョコレートだったのです。もちろん砂糖以外の甘味料も一切入っていません。見た目は間違いなくチョコレートですが、口に入れると、黒くて苦い絶望的な物体でしかありません。僕の浅すぎる人生経験において、甘くない板チョコが普通のスーパーで売られているなんて想像だにしていない事でした。そして、甘くないチョコレートがここまで妥協の余地なく「まずい」とは思いもよらない事でした。

 とはいえ、捨てるわけにもいかず、仕方なく砂糖とこの無糖チョコレートを同時に口に放り込み、じょりじょり言わせながら食べきったのでした。「苦い・・・甘い・・・苦い・・・甘い・・」という極端な味のシーソーゲームを楽しみながら・・・。

 今にして思えば、溶かしてココアにして飲めばよかったなぁと思っています。

こんな感じで売られていた無糖チョコレート。カカオ分○○%というのが当たり前になった今なら分かりますが、「100%CACAO」と書かれているのがどういう意味なのか、当時は全然わかりませんでした。一体誰がどのような目的で買うんでしょうね?

※マルチトール・・・麦芽糖から作られる、いま話題の天然の甘味料で、砂糖に似た甘さがあるのにカロリーは砂糖の半分という夢のような甘味料だそうです。後味がさっぱりしているのが特徴です。マルチトール自体は比較的安全性の高いものだと言われていますが、注意点が一つ。マルチトールは水飴の主成分である麦芽糖から作るのですが、その麦芽糖自体がどのような物から作られているかが分からないと、遺伝子組み換え作物から作られたものを知らないうちに口に運ぶことにもなります。ご注意ください。

第60回「インカ遺跡からの逆落とし」ティポン遺跡(ペルー⑩)

 インカ帝国の首都だったクスコは、街自体がインカとその征服者であるスペイン人の植民地建築が折り重なった博物館のようです。街の高台には雄大なサクサイワマン遺跡があり、クスコの郊外には無数のインカ遺跡が点在しています。その中でも規模の大きな遺跡は、(ちょっと俗っぽいですが)インカ遺跡スタンプカードのようなものがあって、どこを訪れるかという参考になります。そんなスタンプカードに導かれて訪れた遺跡の一つがティポン遺跡です。

ティポン遺跡は山の上にある遺跡で、アクセスが結構不便です。最寄りのバス停から乗りあいのトラックの荷台に乗せてもらって、かなり急な坂をドンドコ登っていってようやく到着。それにしても不思議なことに、山の上にあるのに今でも立派な石組みの水路から水が流れ続けています。山の上の農業用水と飲料水のための水路が、インカ滅亡後400年以上経った今でも現役というのは驚愕の事実です。文字を持たなかったインカの民は、歴史書のようなものを残していないので、今も分からない事が多いのですが、インフラ設備に関してはかなり高度な水準にあったことは間違いないでしょう。

 

さてそんな遠い昔のインカの人々の技術の高さに驚嘆し、さあ帰ろうと思った時、事件(?)は起きました。山を下るのも、行きに乗せてもらった乗り合いトラックが待っていてくれたので、その荷台に乗って帰ることになっていたのですが、荷台に乗って、坂を下り始めた時、我が目を疑うような事が起きました。なんと突然トラックの運ちゃんがエンジンを切ったのです。つまりトラックはブレーキと車輪のついたただの箱も同然の状態になったのです。エンジン音がないため無音のままゴロゴロという音だけ立てて、その「箱」は猛烈な勢いで坂を転がり下りていきます。乗客一堂、文字通り乗りかかった船というか、もはやどうすることもできず、荷台の縁にしがみついています。「ガソリンケチってやがるな」とか「エンジンブレーキを使ってないから、逆に車に負担をかけるんじゃないのか」とか、比較的冷静な乗客たちは大声で怒鳴り合っています。僕はというと、とりあえずトラックがコースアウトしないかどうか心配で山道の幅ばかり気にしてました。

さて、遊園地の絶叫マシンもかくや、という恐怖体験でしたが、猛烈なスピードで下っていったためあっという間に終了しました。登る時は結構時間がかかったのですが…。とにかく無事に下山できて本当に良かったです。

 

クスコの街から一番近いインカ遺跡、サクサイワマン遺跡。インカ最大規模のお祭りである「インティ・ライミ」もここで開催されます。

今も現役の水路が活躍しているティポン遺跡は山の上にあります。チョロチョロと水が流れる心地よい遺跡でした。

第61回「クイを喰う」ティポン遺跡(ペルー⑪)

 先週に引き続き、山の上に水路が現役で活躍する素敵なインカ遺跡、ティポン遺跡を訪れた時のお話です。遺跡に登る前に、麓の村の食堂でお昼ご飯を食べることになりました。なんとここでは「クイ」という名物料理が食べられるとのこと。なかなか他では食べられないのでぜひ食べてきた方がいいよ、というオススメもあって注文したのですが・・・。クイというものが何なのか、実は知っていました。ペルーではクイという名前の巨大ネズミの料理があるらしいと・・・。しかし、出てきた料理を見てドン引きしました。写真を見てもらえれば分かっていただけると思いますが、完全にネズミちゃんの原形を留めています。いくら何でももう少しオブラートに包んでも良かったんじゃないですか。しかも、このクイ料理、何人かで注文したのですが、上半身か下半身か、どちらが出てくるか分からないのです。写真はその2つを合わせて撮影しています。なんかそうやって考えていくとグロテスクでもありますね。あまり深く考えず、普通のお肉料理と思うことにしましょう。センターの鮭の四半身も、上半身と下半身のどちらが届くか分からないですからね(笑)。

 さて、それでは肝心のクイの味の感想ですが。実は中にたっぷりと香草が詰め込まれてローストされているのです。しかもかなりクセのある香草なので、正直なところその香草の味しかしませんでした。おそらく肉に臭みがあるので、香草の香りで食べやすくしているのだと思いますが、なんか拍子抜けでした。

 

と、ここまでが旅行中の感想です。帰ってからクイについて少し調べてみました。

 南米大陸ではクイは紀元前5000年頃から、野生種を家畜化し、食用として飼育していたそうです。どんな種類のネズミかと思ったのですが、動物実験に使われることの多い普通のモルモットだそうです。1960年頃まではお祝いごとの時に食べられるご馳走だったのですが、今は普通に食卓に出されるそうです。繁殖力が極めて高く、牛や豚と違って飼育に場所をとらないので、都会でも台所の周辺などで飼育されており、ペルーではなんと年間6500万匹が消費されているそうです。ちょっとした国民食ですね、これは。ちょっと食べすぎのような気もしますが、ペルーは人口3,000万人なので、1人当たり1年に2匹と少し、です。そう考えると多くもないのかもしれません。

 

クイにまつわる小ネタをもう一つ。中南米に侵略したスペイン人宣教師たちは、熱心にキリスト教を布教するのですが、ペルーの教会には、ペルーの文化とキリスト教文化が見事に融合した宗教画があります。それはレオナルド・ダ・ビンチの絵でも有名な「最後の晩餐」なのですが、キリストと12司徒が最後の夕食を食べるシーンを描いたこの作品の晩餐のメニューがなんと「クイの丸焼き」なのです。ペルーの国民食であるクイがイエス・キリストの最後の晩ご飯というのが、ペルー人にとってのリアリティなのでしょう。なんとなく微笑ましいですね。

 

一刀両断されたクイ。香草の味でよくわかりませんでしたが、ウサギや鶏のモモ肉のような味だそうです。

その拡大図。よく見ると大皿に乗ったメインディッシュがクイです。

ペルーの教会にある最後の晩餐の絵。

第62回「地球の裏側からの応援」クスコ(ペルー⑫)

ワールドカップ観戦の合間に訪れたインカ遺跡の一つ。

その拡大図。当時の石組みそのままの飛び出した階段は見事としか言いようがありません。もちろん今も現役で、観光客も使ってよいという太っ腹な観光地でした。普通こういう場所は立ち入り禁止になったりするのですが。

 クスコでインカ遺跡を巡っている間、並行して行っていたことがあります。それは、ワールドカップでサッカー日本代表を応援することです。ときは2002年。一生に一度あるかないか、と言われた日本開催(共同開催でしたが)のFIFAワールドカップの招致に成功し、日本では大盛り上がりだった(んですよねぇ)。みなさんは日韓ワールドカップの時、どこで何をされていたでしょうか?試合は観てましたか?僕はちょうどその時、地球の裏側のペルーで日本人旅行者数名でワイワイ応援していました。自国開催にもかかわらず、時差が14時間もあるので、試合はいつも真夜中3時とか5時キックオフでした。夜食としておにぎりを握って食べながら応援するのですが、現地のテレビ局の放送のため、スペイン語の解説しかなくて難儀しました。特に1試合目のベルギー戦などは、入ったはずの得点が取り消された理由などがさっぱり分からず、テレビにかじりつきながら紛糾していました(笑)。スペイン語に関してはグアテマラで勉強したはずなのですが、あの時学んだお行儀のよいスペイン語とは全く違う、激しい現地の実況中継は、テンションが高すぎて全く理解できませんでした。ただし、得点が決まった時に解説者が、

「ゴルゴルゴルゴルゴルゴルゴルゴルゴルゴルゴルゴルゴ――――――――――ォル!!」

と、いささかくどく連呼するのだけは、しっかり理解できましたが…。

 

 そんなサッカー観戦の合間をぬって、色んな遺跡巡りをしていました。日本では馴染みのない名前の遺跡ばかりでしたが、見事な遺跡もたくさんありました。写真を載せている遺跡もその中の一つです。名前も忘れてしまったかわいそうな遺跡ですが、自由に散策でき、石組みから飛び出す構造の階段にも登ることできて、インカ帝国の時代にタイムスリップできる楽しい遺跡でした。まあ、遺跡というよりただの廃墟のように無造作に存在していた印象ですが。

 そんな風にして過ごしているうちに、決勝トーナメントの1回戦で日本があえなく(イケメンFWのイルハン率いる)トルコに負けてしまったため、重い腰を上げてマチュピチュに向かう事にしました。「古代遺跡の西の横綱」と称されるマチュピチュに行くのに腰が重いとは何事か、と今の自分は思いますが、当時は「まあマチュピチュでも行くか~」という実に軽い感じでした。若さとは恐ろしい・・・(反省)。

 

※ちなみに「古代遺跡の東の横綱」はカンボジアのアンコールワットだそうです。

第63回「インカ帝国の幻影」オリャンタ・イ・タンボ(ペルー⑬)

 さあいよいよマチュピチュ遺跡を目指して出発する日になりました。クスコからマチュピチュへは、①ちょっとリッチな列車で直行する行き方と、②コレクティーボと呼ばれる乗り合いトラックでオリャンタイタンボまで行き、そこから鈍行列車で向かう行き方、そして③インカ道と呼ばれるインカの民が敷いたトレッキングルートを何日かかけて歩いてクスコからマチュピチュまで向かう行き方、の3通りの行き方がありました。お金がある(もしくは時間がない)旅行者は①の列車で直行を選び、根性と体力と時間がある旅行者は③のトレッキングを選ぶ傾向にあります。時間はあるけど、お金も根性もあまりない僕は②の方法で行くことにしました。

 途中で立ち寄るオリャンタイタンボという町には、実はマチュピチュより規模の大きく、世界史的にはマチュピチュよりずっと重要なオリャンタイタンボ遺跡があります。ですが、この遺跡を見学する旅行者は、すぐ先にマチュピチュ観光があるので浮足立っていて、あまり集中してこの遺跡を見学できない、もしくはマチュピチュ観光のオマケとしてこの遺跡を見てしまいがちです。僕も全くノーマークだったのですが、実際に行ってみると、なかなかどうして、堂々たる規模の遺跡は見ごたえも充分で、遺跡の高みから眺めるモザイク状の田園風景も素晴らしかったです。真昼の月がサボテンの岩山の向こうに昇っていく様子は、きっと500年近く前のインカ帝国滅亡の時も同じだったのかなぁと思ったりしました。

 そう、このオリャンタイタンボ遺跡は、滅亡寸前のインカ帝国が抵抗のため最後に立て籠もった砦だったと言われているのです。その後スペイン人の攻撃を受け、ウルバンバ川下流のビルカバンバと呼ばれる町へ撤退し、そのまま滅亡してしまったと伝えられています。ビルカバンバという町がどこにあるのかは、実はまだはっきりと分かっていないらしく、インカ帝国の最期にはまだ謎が多いのですが、満身創痍のインカの民がこのオリャンタイタンボで最後の抵抗をしていたことははっきりしています。太陽が輝くペルーのとうもろこし畑を遺跡から眺めながら、しみじみとインカ帝国の幻影に思いを馳せていました。

 

山間にモザイク状に広がるトウモロコシ畑

オリャンタ・イ・タンボ遺跡に登って見下ろすと、悠久の歴史を感じられます。

第64回「麓の村でひとやすみ①」アグアス・カリエンテス(ペルー⑭)

アグアス・カリエンテスの村はずれの風景。ここに流れる川は遺跡のまわりをぐるりと取り囲んで流れています。

地味な写真ですみません…

 オリャンタ・イ・タンボから電車に乗り換えて、マチュピチュの麓の村(小さな広場があるだけの小さな小さな集落です)、アグアス・カリエンテスに到着しました。しかしこの村、最近ではもっぱら「マチュピチュ村」と呼ばれているようです。ちょっと意外かも知れませんが、マチュピチュ観光の隠れた目玉として、このふもとの町が注目を集めているのです。もともとは村ですらなかったのですが、ビンガムさんというアメリカの探検家がマチュピチュを「発見」したことで、突然この辺りは(文字通り)世界屈指の観光地となり、世界中から観光客が大挙して押し寄せ、結果として麓の町はどんどん発展していくことになります。

この土地がアグアス・カリエンテスと呼ばれていることはすでに書きました。「アグアス=水」「カリエンテス=熱い」つまり「熱い水」。ずばり、温泉が出るんです。マチュピチュに向かう前に、もしくはマチュピチュ観光の後で、ゆっくり温泉に浸かってここまでの旅の疲れを癒すことが出来るのです。僕が訪れた頃からレストランやホテルがいくつかあったのですが、テレビなどで見る最近の発展ぶりには我が眼を疑います。なんと、ニューヨークの最新のスウィーツが食べられる店や、高級フレンチが食べられる店など、およそこの山間の集落に似つかわしくない(?)店がどんどん出来ているようなのです。繰り返しますが、本当に小さな集落です。歩くとほんの数分で端から端まで行きついてしまうくらい、小さなところです。

電車がこの村のど真ん中に到着したのはもう日暮れた時間だったので、遺跡観光は明朝にすることとなりました。マチュピチュ遺跡へと、はやる心を抑えてこの村で一泊です。夕食は広場にある食堂でメヌーと呼ばれる定食を食べました。メヌーはペルーの定番中の定番の食事スタイルで、まずソパと呼ばれる汁物(スープですね)が出てきます。結構大量に出てきます。ここにはキヌアをはじめとする南米特産の穀物とジャガイモがたっぷり入っています。味付けはほとんど塩だけなのですが、素朴で実にうまいです。その後、ご飯と野菜と鶏のワンプレート料理が運ばれてきます。スープの後にメインが出てくるので一応コース料理なのです。コース料理だけど大体1ソル(当時は1ソル=45円程度)ぐらいで食べられます。マチュピチュ観光の前の日もこういった定食を食べました。はじめに出てくるジャガイモのソパがやたらと美味しかったのをよく覚えています。

来週は、意外と印象に残っているこの村の温泉での出来事を書いてみます。

第65回「麓の村でひとやすみ②」アグアス・カリエンテス(ペルー⑮)

温泉とは思えないような風情のない外観ですが、それでも露天風呂に入れるのは気持ちよかったです。でも、とにかくぬるかった~。

「アグアス・カリエンテス=熱い水」。中南米にはここ以外にもいくつか、アグアスカリエンテスという町が存在します。温泉が湧き出る町はこういった名前がつけられることが多いんですね。結構適当に名前をつけてますね。特に有名なのは、メキシコ中部にあるアグアスカリエンテス州の州都アグアスカリエンテスです。温泉が豊富に湧き出ているのはもちろんのこと、それ以外にも教育熱心な州として知られ、メキシコで一番住みたい都市ランキングの上位を占めているとのことでした。

 このように、温泉が湧き出たらどこでも「アグアスカリエンテス」と名付けてしまうラテンアメリカもなかなか油断できないですが(笑)、マチュピチュの麓のアグアス・カリエンテスの温泉はどんな感じなのでしょうか。よく知られているように、外国では公衆浴場に裸で入る習慣がないので、みんな水着を着ています。写真を見ていただいたらよくわかりますが、風情というものがまるでありません。これではまるで学校のプールみたいです。しかもお湯も残念なくらいぬるい・・・。たぶん37℃ぐらいしかないのではないでしょうか。体温とほとんど変わらない微熱レベルのお湯の温度と言い、風情のなさといい、温泉大国日本では失格の烙印を押されそうな温泉施設ですが、どっこいここはペルーです。しかもマチュピチュ遺跡の麓の小さな村で温泉に入れるなんて、贅沢以外の何物でもありません。お湯に浸かって空を見上げると、鬱蒼とした山に囲まれた小さな空がみえます。日が暮れかけて薄紫になっています。ガサガサという得体のしれない夜もの動物の立てる音や木々の匂いから、山の中にいるという空気感が全身を包みます。こんな所の、しかも山の上に遺跡を作ったなんて理解不能なくらい、本当にすんごい山の中です。

 このとき初めて、明日はマチュピチュを見に行くんだという期待感がぶわぁーと全身を包んできました。出発前から絶対に行こうと心に決めていて、確実に近づいてはいたものの、なんとなく「まあどうせそのうち行くんだから」とあまり深く考えていなかったのですが、ここから見えるあの山の上にマチュピチュの遺跡があると想像しただけで興奮が抑えられないようになってきてしまいました。少し大げさに書くことが許されるなら、「叫び出したい気持ち」とでもいうのでしょうか。若いですね~。ロサンゼルスの空港からここまで、ほとんど陸路、そして少し空路。とうとうここまでたどり着きました。この旅を始めてから3ヶ月が過ぎようとしていました。

第66回「自然が生み出す、粋な演出」マチュピチュ(ペルー⑯)

いよいよ旅のハイライト、マチュピチュへと向います。早朝、麓の村アグアスカリエンテスから、マチュピチュの発見者の名前をとって「ビンガムロード」と呼ばれるつづら折りの山道をバスで登っていきます。山の頂上にある遺跡とはいえ、こんなに山道を登らないといけないとは想像もしていませんでした。1530年頃にスペイン人の征服によって放棄されたと言われているこの遺跡は、ハワイ生まれの考古学者ハイラム・ビンガムが1911年に発見するまで400年近くの間、誰にも知られることなくひっそりと埋もれていたのですが、裏を返せばそれだけ長い間、誰にも発見されなかったぐらい急峻な場所にあると言うことですね。

そんな山道を登り切ってバスを降ります。まだ遺跡は見えてきません。というか山の上に高級ホテルがあります。その名も「マチュピチュ・サンクチュアリロッジ」。部屋から朝日や月に照らされた遺跡が見えたりするというもっぱらの噂の、遺跡に隣接している唯一のホテルです。えーと、一番安い部屋で1泊10万円ぐらいします。もう少し年齢を重ねたら、こういうステキなホテルに泊まってゆっくり観光ができれば素晴らしいのでしょうが、もちろん当時の僕には全く無縁の世界です。ちらっと横目で見ながら、とはいえ胸を躍らせながら遺跡のある方向へと進んでいきます。

そしていよいよ全景が見えるビューポイントに到着・・・したはずなのですが、早朝のためか、濃霧で全く見えません。あれ、あれ、なんも見えませんけどぉ。仕方がないので、ぼんやり待っていると回りがざわざわしてきました。そして信じ難いことが起こりました。劇場の幕が開くように、濃霧がサーーッと引いていって、突然、本当に突然、あの遺跡が忽然と目の前に現れたのです。「な、なんじゃこりゃー」。その光景に、文字通り大興奮です。超有名な観光地なのでテレビや写真では散々見ています。だから見慣れているはずなのですが、遺跡が山頂にへばりつくようにして築かれているため、そのダイナミックな立体感は実際に見てみないと分かりませんでした。自然が作り出した、あまりにも粋な演出に言葉を失い、目の前の光景を呆然と眺めていました。マチュピチュは遺跡の中を自由に散策できるので、あちこちウロウロしたり、崖へと下っていく急峻な段々畑を上から眺めたり、と楽しみ方が色々なのですが、遺跡に入る前に1時間ぐらい、飽きることなくその場に立ち尽くしてしまいました。テレビや画像でどれだけ見慣れていても、実際にその場に行くとめちゃくちゃ感動します。実際に行く価値がものすごくある場所です。

写真にもあるように、アルパカやリャマが遺跡内をのんびり散歩していました。ここで一つ疑問が…。リャマとアルパカって見分けがつかないけど、どう違うんやろ・・・?

というわけで調べてみることにしました。マチュピチュ観光の真っ最中ですが、次週はリャマとアルパカの違いについて書いてみます。

 

 霧がサーと晴れて姿をあらわした遺跡の姿に感動。

遺跡の中にはリャマやアルパカがブラブラしています。どこから来たんやろ?

第67回「リャマとアルパカ」マチュピチュ(ペルー⑰)

これは、リャマかアルパカか、どっちやろ?と思っていたのですが、調べてみると間違いなくリャマですね。そのリャマをバックにマチュピチュをパチリ。適当に撮っただけですが、ものすごく絵になりますねぇ。

おばちゃんがリャマとアルパカを連れています。このリャマは毛が深いブラウンですが、白いリャマもいっぱいいます。この写真ではリャマとアルパカの大きさは同じくらいですが、成獣になるとリャマの方がずっと大きいようです。

 某化学メーカーのテレビCMですっかり有名になったアルパカ。そしてアンデスを代表するリャマ。ペルー国内をバスで行き来していると、あちこちでこの2種類の動物を見かけることになります。そう頭で思い込んでいたのですが、よく考えたら、旅行中この2種類の動物を見分けられていませんでした。どちらも「アンデスに生息する、ラクダと羊の中間のような動物」というかなり漠然としたイメージしか持っていなかったからです。動物園などでまじまじと見たこともないので、アンデスで動物を見たら「ああ、リャマやアルパカがいるなぁ」とひとくくりにして認識していました。なんちゅういい加減な…。

 というわけで具体的にどう違うのか調べてみました。で、一番短い説明がこれ。

 

・リャマの方が筋肉質で体育会系。かっこいい感じ。

・アルパカはモフモフした毛におおわれていて小柄な文化系。かわいらしい感じ。

 

とのこと。何とも漠然とした説明ですね。うーん、なんとなくイメージは分かるんだけど、これでは見分けられないかも。どちらもラクダ科に属していて、ラクダの仲間なんですね。うーん違いがよく分からん・・・。そうこうしながら調べていると、インディヘナのおばちゃんが2頭まとめて連れている非常に分かりやすい画像を見つけたので、ちょっと載せてみます。これならすぐにわかりますね。

ちなみに、可愛らしい容姿のアルパカですが、警戒心が強く、慣れるのは容易ではないようです。人が近づくと臭い唾液を吐きかけるというとてもダーティーな習性を持っているのでお気を付けください。体育会系のリャマは、がっしりとした体形に似合わず穏やかですぐ人に慣れるようです。アンデスに暮らす人達の、リャマやアルパカとの関わり方にも大きな違いがあって、リャマは荷物の運搬や糞を燃料にするなどの利用の仕方ですが、アルパカはもっぱら防寒用に毛を刈っていたそうです。そう考えると、リャマはラクダ、アルパカは羊の役割を果たしてきたのかもしれませんね。

この旅でのベストショットの一つと自負していたマチュピチュの写真を今回掲載しています。このコーナー上部のタイトルにも使用しているものです。実はここに写っている動物がリャマなのかアルパカなのか、長い間いまいち不確かだったのですが、今回調べてみて、これは間違いなくリャマだと分かりました(笑)。よかったよかった(なにがよかったのやら…)。

 

 

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第68回「ワイナピチュ登頂」マチュピチュ(ペルー⑱)

「マチュピチュ」は「老いた峰」、「ワイナピチュ」は「若い峰」という意味です。この山の頂まで登ってきました。よく見ると山頂付近に人工物が見えますね。下に拡大写真を載せています。

ワイナピチュの山頂付近

登るだけでも命がけのこんな山の上にまで緻密な段々畑や建物の跡が見えます。インカ帝国の凄みを感じさせられます。

ワイナピチュ山の頂上からマチュピチュを見下ろした図です。立体的な遺跡であるはずのマチュピチュがべたっと平面で見えるのが面白いですね。

 有名なマチュピチュの遺跡の全景写真には、必ずと言っていいほど奥の山が一緒に写りこんでいます。これは「ワイナピチュ」と呼ばれていて、現地のインディヘナの言葉、ケチュア語で「若い峰」という意味だそうです。南米大陸の主食、トウモロコシのようなユニークな形をした急峻な山です。よく見るとこの山の頂き付近にも段々畑や遺跡らしきものが見えます。インカの民の根性?たるや恐るべしですね。

 このワイナピチュは山頂まで登ることが出来ます。出来ますが、登山中に足を滑らせて滑落し、死者も出ているとのことで、かなりワイルドな登山になるそうです。しかしこの遺跡とこの山をセットで見ていた時、山頂から一体どんな風景が見えるのだろうと思うと、登らずにはいられなくなりました。

 登山口できちんと記名し、何時までに戻って来ることなどという注意受けて、いざ出発。いきなりジェットコースターのようなアップダウンがあってかなりひるんだのですが、そこからは手すりがボロボロだったり、足場が悪かったりしたものの、なんとか山頂付近まで登っていきました。山頂付近まではあまり見晴らしも良くなかったので、絶景を楽しむ余裕もなく、ひたすら体に鞭打って登っていきましたが、山頂付近なると、遠くから識別できた住居跡(ほこら?)のような遺跡がポツポツと見えたり段々畑が見えてきたりしてなかなか楽しかったです。そして山頂へ。巨大な石がゴロゴロと置かれた山頂から、上から見たマチュピチュの姿を眺めてきました。あれ、なんか想像してたのと全然違うなぁ、というのが正直な感想です。下から見ているとマチュピチュは立体的な広がりを持った姿をしているのですが、上から見ると、意外と平面的で這いつくばった姿をしていました。当時の日記には「上から見たマチュピチュは霊園のように見える」と書いてました。なんか今よりええこと書いてるやん…。

 

それにしても遺跡を上から眺めてあらためて思うのは、段々畑がほんまに凄いなぁということです。崖のギリギリまで石組みを作ってあるのですが、農作業中にちょっと油断すると、崖の下のウルバンバ渓谷を真っ逆さまに落ちていきます。恐ろしや。

 山頂で1時間ぐらいぼんやり過ごして、もと来た道を下山していきます。下山する時の方が足を踏み外さないか、すごく怖かったです。遺跡を後にしたのはもう日が傾き始めた頃です。古代の幻影に魅了されっぱなしの、遺跡で過ごした一日でした。

 

 

 

第69回「アンデス山中列車旅」クスコ~プーノ(ペルー⑲)

アンデス山中を走る鉄道。鉄道好きの専従Wによると、標高4000mを超えるような高地では燃料が燃焼しにくいため列車の仕様も特殊なものなのではないか、とのことでした。僕にはちんぷんかんぷんですが…。

 マチュピチュ観光を終え、クスコに戻り、居心地の良かった宿をチェックアウトしました。ワールドカップ観戦の拠点にしていた事もあって、この宿には実に30日間も滞在していました。南米のゲストハウスの多くはバックパッカー向けの長期割引があり、ここでは30日100ドル(当時のレートで約13,000円、つまり1泊430円ほど)という破格の値段で泊まれた上に、宿泊者用のキッチンもあったので毎日自炊できてかなり旅費を節約できました。南米旅行は、飛行機で直行すると航空券代はそこそこしますが、一度来てしまえばお金をかけずに楽しく旅行ができる素敵な所だと思います。中米と違って旅行者がたくさん訪れるので、(もちろんトラブルはよく起きますが)、旅行者向けのインフラも整っており、見どころも満載です。観光名所が目白押しすぎて、代表的なものでさえ見尽すことは困難です。見どころが満載で、見尽すことが難しい南米ですが、その中でもマチュピチュはやはり群を抜いて見応えがありました。そんな南米のいわば目玉スポットを見終わったので、気が抜けてしまうかと思ったのですが、ここから旅はどんどんワイルドな方向へ転がっていきます。次なる目的地は南米大陸の奥座敷ボリビアです。もちろん陸路で国境越えとなるのですが、ペルーとボリビアの国境はかの有名なチチカカ湖にあります。というわけでチチカカ湖のほとりにあるプーノという町に向かいました。

移動には、この旅で初めて長距離列車を使いました。クスコ・プーノ間を約10時間かけてのんびり移動します。途中には世界で最も高所にある駅として知られる標高4319mの「ラ・ラヤ」駅があります。というか、僕が旅行をしていたころは間違いなく世界最高所の駅だったのですが、2006年にチベットの西蔵鉄道が開通してからは、世界最高のタイトルを返上してしまいました。ちなみにチベットの最高所の駅は5068mあるそうです。まあ、世界一であろうとなかろうと、日本には存在しない標高の場所に駅があるという感覚はピンときません。駅と言ってもその駅の周囲に集落があるわけではなく、先住民の皆さんが露店をズラッと構えて観光客を相手に土産物を売ることの方が目的ではないかと思えるような閑散とした場所です。

アンデス山脈のど真ん中を走り抜ける間、ぼんやりと車窓を眺めます。それしかすることがないのですが、不思議といつまで眺めていても退屈しません。そうこうしているうちに列車は終点のプーノに到着していました。インカ帝国発祥の地と言われるプーノとチチカカ湖。ここまで来ればボリビアはもう目と鼻の先です。

第70回「トゥルーチャ丼と圧力鍋」プーノ・チチカカ湖(ペルー⑳)

こうやって市場で売られているのを見ると余り美味しそうではありませんが、脂ものったオレンジ色の美味しい魚でした。アボカドとの相性が抜群です。

陸から眺めるチチカカ湖。複雑な形をしているためよく分かりませんが、果てしなく巨大な湖です。

チチカカ湖のほとりの町プーノに到着しました。チチカカ湖。名前だけはどこかで聞いたことがあるのではないかと思う非常に有名な湖ですが、なんとなく神秘的な雰囲気を感じさせます。しかしこの湖、はっきり言って馬鹿デカいです。滋賀県出身の僕としては琵琶湖でさえかなり広く感じますが、チチカカ湖はなんと琵琶湖の12倍の広さがあります。そして高地にあるためか、湖の色がやたらと濃い藍色をしています。そして神秘的な雰囲気をぶち壊して恐縮なのですが、トゥルーチャと呼ばれる外来魚のニジマスが大量に生息しています。これは北米原産で、いつの頃からか放流されて天敵のいない環境で大繁殖したものです。うーん、この辺はブラックバスやブルーギルが大量発生した琵琶湖とよく似た話ですね(汗)。このトゥルーチャ、鮭によく似た味で結構おいしいので、市場でたくさん売られています。クスコにいる時、このトゥルーチャとアボカドをたくさん買ってきて、キッチンで刺身にして、アボカドのスライスと交互にご飯の上に並べたトゥルーチャ丼を作って宿泊者みんなで食べました。旅行者の中に醤油とワサビを持っている人が居たので(どよめきが起こりました)、ずいぶん久しぶりに日本的な味わいを堪能したように思います。普通のノルウェー産やチリ産のサーモンなどと味が変わらないので、言われなければ分からないと思います。脂が乗っていて熱いごはんに良く合います。久しぶりに食べた醤油と刺身と白ごはんの相性の良さに、改めて日本食の素晴らしさを実感しました。こういう組み合わせは世界でも他に類のない非常にオリジナルな食文化だと思います。

ご飯を炊くことについては、メキシコ編でも少し触れましたが、クスコは標高3000mを越える高地なので普通に鍋でご飯を炊くと沸点が低くてうまく炊けません。普通に炊くと、外がお粥のようにベチャベチャになり中に芯が残るという、世にもおぞましいご飯が炊きあがります。スパゲッティに至っては、アルデンテはおろか、伸びすぎるくらい茹でても中に芯が残ってしまいます。「美味しくない」と「食えたもんじゃない」の中間ぐらいのパスタが食べられます。そこで圧力鍋を使って炊いていました。圧力鍋を使うと、ご飯でもスパゲッティでも、なんでも実に美味しく調理することができました。圧力鍋って世界各地で大活躍しているんですね。全然知りませんでした。圧力鍋のことをスペイン語ではolla expres(オジャ・エクスプレス)と言います。ちなみに英語ではpressure cooker(プレッシャー・クッカー)というそうです。高地に旅行に行かれる際は、覚えておいて損のない言葉だと思います。

第71回「ウロス島①」チチカカ湖(ペルー㉑)」

ウロス島はこんな感じです。

湖の上を進んでいるのが、トトラで編んだ船です。ウロス島に暮らす人々の交通手段です。

 チチカカ湖に、トトラと呼ばれる草を組み上げて作った浮き島があることは、最近ではよく知られるようになってきましたが、当時は全然知りませんでした。この島にはウル族と呼ばれる先住民族が暮らしており、その民族の名前をとってウロス島と呼ばれています。ちなみにウロス島は特定の島の名前ではなく、彼らが作る浮島の総称です。チチカカ湖上には大小300ものウロス島が浮かんでいると言われています。

彼らは、陸に暮らす人々と交易をするなど交流はしながらも、湖上での生活を今もまだ続けています。湖の上で暮らすと言っても、先程も書いたように、トトラで作った浮島に同じくトトラで作った家を建てて暮らすという、ちょっと想像もつかない生活です。島の寿命は長くて15年ほどなので、何度も作り直していきます。家族や親族単位で島を作るそうですが、親族同士がケンカすると島を切り離したり、結婚して親戚になると島を繋げたり、という非常にユニークな風習を持っています。その様子を想像すると(不謹慎ですが)ちょっと笑ってしまいます。住居だけでなく移動に使う船もトトラ、島民が普段利用する学校や病院のような公共施設もトトラを使って湖上に作られています。あらゆるものが再生可能な草で出来ているのです。まるで映画の世界にでも迷い込んだようなその様子は、感動的ですらあります。なお、僕が訪れた2002年頃はなかったと思うのですが、最近は観光客向けに、トトラで作られたカフェやレストラン、ホテルなどもあるそうです。電話ボックスまでトトラを編んで作られているという徹底ぶりには舌を巻きました(もちろん電話は普通の電話です)。しかし考えようによっては、豊穣な湖の幸と湖畔や湖上に生えるトトラ、そして陸の民から魚と交換で得る野菜だけで全てが完結する彼らの暮らしは、ほぼ完璧な「持続可能な生活」とも言えます。

 それにしてもウル族の人々はなぜこんな不便な(と普通は思いますよね)暮らしをしているのでしょうか。それは彼らがインカ帝国からもスペイン帝国主義からも被差別民族として扱われていたからなのです。陸で暮らす事を許されなかったがために、湖で生きざるを得なかったのだと言う事です。おそらく世界中には望むと望まざるとに関わらず、そういう生き方をしている人々がたくさんいるのでしょう。ただ、このウロス島は、観光資源の豊富な、そして比較的アクセスのしやすいペルーとボリビアの主要道路たるチチカカ湖にいたため、観光客やメディアがたくさん訪れ、その存在が知られるようになったのでしょう。昔はなかったレストランやホテルができていることからもそれが分かります(それが手放しで良いと言っているわけではありませんが…)。話が長くなってしまったので、実際に上陸した時の事はまた次週に。

 

 

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第72回「ウロス島②」チチカカ湖(ペルー㉒)」

実際に上陸したウロス島の内部の様子です。おそらく観光客が上陸(?)することを想定して作られている島だと思いますが、かなりの広さがあります。島の大きさは様々ですが、全部で300ほどの島があり、3700人ほどが今でも暮らしているそうです。

欧米人バックパッカーがはしゃぎ過ぎてもいでしまったトトラ船の船首。なんか必要以上に哀れに見えるのは気のせいでしょうか?

 東南アジアの海域で暮らす海洋民族。僕が訪ねたことはないのですが、とりあえず参考資料として・・・。「世の中にはいろんな人が色んな暮らしをしてるんやんぁ」の典型のような人々です。

 (先週からの続きです)

 前置きが長くなりました。実際に島に足を踏み入れると、安定感がなくてふわふわした感触です。巨大なアドバルーンに乗っているようでもあります。この地球上には、一生を海で過ごす海洋民族「バジャウ族」(※)のように、想像もつかない暮らしをしている人々もいるので、この湖上の浮き島での暮らしはまだしも穏やかなものではあるのでしょうが、それでも、この島に大地を踏みしめている感覚はなく、とても頼りない感じがしてしまいます。このような暮らしを長く続けていれば、陸で暮らすことが逆に難しくなってしまうのかもしれません。もともとは陸を追われて湖上で暮らすようになった人々ですが、ここでの暮らしにおける様々な知恵を身につけることで環境に見事に適応したといえます。陸で暮らせるようになった今でも彼らは湖上を離れようとはしないようです。

 さてそんな、彼らの暮らしの中で気になった事をひとつ。当たり前と言えば当たり前なのですが、この島の上で煮炊きもします。特に台所というスペースはなく、地面に火を起こす炉のような場所があって、そこに鍋を置いて魚のスープなどを作って食べています。それはいいのですが、どうも草の上で火をおこすのが心配で仕方ありませんでした。「草に燃え移ったりしないのだろうか」。そんな心配をよそに調理された魚のスープは月並みな表現で誠に恐縮ですが、素朴としか言いようのない味わいでした。

 その後、観覧車のような構造物がある遊園地のような島を見つけたり、トトラ船に乗り移った欧米人旅行者がはしゃぎ過ぎて飾りとして船頭につけられているジャガー(?)の頭をもいでしまったり、ドタバタもありつつウロス島観光は終了。

この島の浮遊感と、何もかもトトラという植物で作られた浮島での想像もつかない暮らしとが混ざり合って、ファンタジーの世界に迷い込んだような不思議な感覚を抱えたまま、湖畔の町プーノの宿に帰っていったのでした。

 湖の対岸はもうボリビアです。ペルーに負けず劣らずファンタジーあふれるボリビア編もお楽しみに!

 

※バジャウ族・・・フィリピンやマレーシア、インドネシアなど東南アジア一帯で、陸に住まず、海で小さな船に生活道具を詰め込み、船上(家舟)で生活する人達の海洋民族(漂浪民)の一つがパジャウ族です。生涯陸に上がらないで暮らすため、陸に上がると船酔いならぬ「陸酔い」をしてしまうそうです。常に海の上で生活をし、魚やナマコ、ウニを獲って、それを干物にして売ることで生活の糧として暮らしています。生まれ、育ち、死ぬ、という人生のサイクルを全て海の上で行ないます。国籍を持たず、国境も関係なく海を行き交い、子供は海と両親に全てを教わります。

 

 

第73回 長旅コラム「ペルー料理考」

インカ帝国の黄金を模した金色に輝く劇甘炭酸飲料にして、ペルー人の国民的飲料(?)インカコーラです。このロゴの入ったTシャツはペルーの定番のお土産になっています。

今回でようやく長かったペルー編も終了です。長かったのですが、見どころが本当に多かったのでこれでも結構省略したり割愛したりしています。最後に、町の食堂などで食べたペルー料理について当時の日記で総括した文章があったので、すこし手直ししてここに載せてみます。

 

2002年6月27日(木)プーノにて

●ペルー食事について考える

まず、一般に「チーファ」と呼ばれている中華料理屋さんで食べたものについて。白ごはんに鶏のから揚げのあんかけを乗せた料理が当地では人気のようで、よく食べた。かなりおいしい。その唐揚げが出てくる前には、いつもワンタンが入った鶏のスープが出てきた。スープが最初に出てくるのはペルーの様々な食堂で全く同じルーティンのようだ。

次にペルー料理の基本である定食(メヌーと呼ばれている)。まずジャガイモを基本としたお肉の入っていないスープが出てくる。そしてメイン。主に2種類ある。ひとつはご飯(米ですね)、サラダ、鳥か牛の焼いたものがワンプレートに乗った「定食タイプ」。二つ目は、やはりご飯にシチューみたいなものがかかった「カレーライスタイプ」。ご飯にシチューがかかったものの方が日本人の口には合うように思う。あとは一度だけベジタリアン向け料理に出会ったことがある。あっさり味の野菜サラダと巨大な茹でジャガイモが5、6個ボンボンと乗った料理だった。ボリュームだけはすごかった。

次に食後の飲み物。ペルーらしさを前面に出した代表的な飲み物「チチャ」はよく飲んだ。紫色のとうもろこしのジュースだ(※トウモロコシのジュースと言われてもピンと来ないと思いますが、帰って調べたところ、正確にはチチャモラーダというポリフェノールたっぷりのぶどうジュースのような飲み物です。それとは別に古くから飲まれているチチャというトウモロコシのお酒もあって、ややこしいのですが)。アイスとホットがあり、どちらも一応おいしい。どうしてトウモロコシを飲み物にしようなんて考えたのだろうか。あとは甘酒のような乳酸菌飲料が出てきたことがある。あまりおいしいとは思わなかった。そして、ペルーの(ちょっと身体に悪そうな)国民的飲料と言えばインカコーラを置いて他にない。金色に輝くとても不自然な色合いの激甘炭酸飲料だ。ペルー国内のありとあらゆる場所で販売されている。

次に屋台飯。アンブルゲッサ(ハンバーガーのスペイン語読み)屋をよく見かけるが、アジフライみたいなものも売っている。チュロスはよく食べた。中にピーナツクリームの入ったものや砂糖をまぶしたおなじみのものが多く、1ソル程度(40円ほど)。

アグアスカリエンテス方面では、フライドポテトとスパゲッティをフライドチキンの上にのせて、ケチャップ、マスタード、マヨネーズをかけて爪楊枝で食べる屋台が多数あった。全体的に辛い料理は少なく、辛党の人は「ピカンテ」と呼ばれる、唐辛子の粒がたっぷり入った各お店の手作りチリソースをかけて食べていた。お腹はこわさなかった。

(南米編②ボリビア編につづく)※南米編①ペルー編終了

 

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