赤池の部屋「世界一周・思い出し紀行」バックナンバー  南米②ボリビア・チリ編

   南米② ボリビア・チリ編 目次

第74回「バスを船で運ぶ」チチカカ湖(ボリビア①)

第75回「ボリビア大統領選挙、驚異の投票率」ラパス(ボリビア②)

第76回「ボリビアの基礎知識」ラパス(ボリビア③)

第77回「ボリビアの基礎知識②」ラパス(ボリビア④)

第78回「サンフランシスコ広場」ラパス(ボリビア⑤)

第79回「シンガス・コンガス問題」ラパス(ボリビア⑥)

第80回「エル・アルト」ラパス(ボリビア⑦)

第81回「刑務所に入る」ラパス(ボリビア⑧)

第82回「凍死寸前の夜行バスに乗って①」ラパス~ポトシ(ボリビア⑨)

第83回「凍死寸前の夜行バスに乗って②」ラパス~ポトシ(ボリビア⑩)

第84回「人を喰う山」ポトシ(ボリビア⑪)

第85回「銀山内部に潜入 」ポトシ(ボリビア⑫)

第86回「世界を変えたポトシ銀山」ポトシ(ボリビア⑬)

第87回「ウユニの町へ」ウユニ(ボリビア⑭)

第88回「鏡の世界」ウユニ(ボリビア⑮)

第89回「イギリス人と『大富豪』」サン・ファン(ボリビア⑯)

第90回「満天の星空」サン・ファン(ボリビア⑰)

第91回「荒野に看板が一つ立っていた」ボリビアチリ国境(ボリビア)

第92回[高地トレーニングの成果」ビーニャデルマル(チリ①)

第93回「寿司食べ放題」ビーニャ・デル・マル(チリ②)

第94回「沈没」ビーニャ・デル・マル(チリ③)

第95回「チリから行ける素敵な場所」ビーニャ・デル・マル(チリ④)

第96回「アコンカグア」サンチアゴ~国境(チリ⑤)

第97回 長旅コラム「情報ノート」

第74回「バスを船で運ぶ」チチカカ湖(ボリビア①)

イカダのような船で大型バスを運ぶ様子です。いまにも沈みそうな危うさ満点。チチカカ湖の日常です。

 いよいよボリビアに入国です。ボリビアと言えば、最近では宇宙人が現れたと話題になった、ちょっと変な国です(笑)。日記を見ると、ボリビアに入ったころには旅が100日を超えていました。長い旅(海外放浪)にただひたすら憧れていた高校生のころは、100日という旅行期間は非現実的な、およそ天文学的な数字でしたが、実際に旅行をしてみるとなんと言うこともなく、実にあっさりしたものです。ニカラグアでの失意のホームシック(詳しくは中米編後編・第43回~第45回参照)以降は、日本に帰りたいとも、もうすぐ帰国するという旅行者を羨ましいとも思わず、気がついたら100日が流れ去っていたような感じです。

 さて南米初の陸路での国境越えです。プーノからバスでチチカカ湖の縁を回ること3時間。ようやくペルーとボリビアの国境に到着しました。チチカカ湖の真ん中でペルーとボリビアが分割されているので、国境事務所も湖畔にあります。地元民に交じって時々バックパッカーが利用するくらいの、のんびりした国境事務所なので、商店街にあるような2階建ての個人商店のように簡易な建物です。ボリビアはビザも不要なので、ほぼノーチェックで通過することができました。ボリビアに入国してからも、コレクティーボという乗り合いトラックに乗り換えてさらに延々と湖沿いを走ります。そして夕方にコパカバーナに到着。この日はボリビア側の湖畔の町コパカバーナに宿泊です。

 この国境越えの際に唖然としたことが2つあります。ひとつはいつまで走っても湖と並走するほどのチチカカ湖のあまりの巨大さ。そしてもうひとつは、湖沿いに道路が作れず車が通行できない場所では、湖の上を船でバスを運ぶという荒技が繰り出されるということです。しかも、船と言ってもバスを何台も積載できるような大型のものではありません。写真で見ていただけたら分かると思いますが、バスがギリギリ一台乗るくらいの、ものすごく小さな船です。ちょっと大きめのイカダのようなものです。バスが乗ると当然のようにその重みで船の大部分が水に沈みます。このままだと浸水する、というギリギリの所で船は安定し、湖上を酔っぱらいのようにヨタヨタと進んで対岸までバスを運んでいました。こんな危なっかしい事が地球の裏側で毎日のように繰り返されていると考えると、人類が曲がりなりにも繁栄を誇っている事が奇跡としか思えません。なんちゃって。

 余談ですが、ボリビアは海に面していない内陸国であるにもかかわらず、海軍を持っている国として知られています。この巨大な湖、チチカカ湖の存在がボリビアをして海軍を持たせたのかと思い込んでいたのですが、実は19世紀まではボリビアはチリと国境を接して太平洋まで至る領土を持っていたそうです。その為普通に海軍を保持していたのです。しかし1879年にチリとペルーとボリビアの間で起きた戦争(なんと太平洋戦争と呼ばれています)の結果、領土を失い、今のような内陸国となってしまいました。ボリビアはそれ以降、今に至ってもチリとの間では正式な国交を回復していません。地球上どこに行っても、いろいろややこしい領土問題があるものですね・・・。

第75回「ボリビア大統領選挙、驚異の投票率」ラパス(ボリビア②)

すり鉢状の地形で有名なボリビアの首都ラパスの遠景。日中は猥雑さが目立ちますが、日が暮れて家々に明かりが灯る時間になると、もっとエキゾチックで、幻想的な景色が広がります。

巨大なチチカカ湖を後に、バスでアンデスの高原地帯を走り抜け、ボリビアのラパスに到着しました。到着したのはもう日も暮れかかった頃。ラパスはすり鉢状に街が広がっているので、すり鉢の底と一番高い地域とでは標高差が結構あります。底の方が、酸素が濃くて快適に過ごせるので、裕福な人たちが住んでいるとのこと。こういう所にも貧富の差がくっきりと浮き彫りにされております。

さて、町を散策する前に、到着早々遭遇したのがボリビアの大統領選挙です。この年はエボ・モラレスさんという先住民出身の候補が健闘したものの、惜しくも次点で落選。次の2005年の大統領選挙にてついにボリビア史上初の先住民出身の大統領となる一歩手前の時の選挙で、国内は歴史を変えるという機運が高まっていました。まさにそんな時期、何も知らない私たちバックパッカーがふらりとやってきたことになります。もちろんそんな事情は知る由もありません。ただ、ボリビアの大統領選挙は、お国柄もあるのか、日本とは様々な点で大きな違いがあります。まず、①国の元首を決める直接選挙であること。そして、②選挙の3日前からアルコール類の販売が一切禁止になり、選挙当日は全ての企業や店舗が営業を停止すること。その結果、③94%というおよそ日本では考えられないような驚異的な投票率を実現していること。

まず①ですが、これは日本のように国会議員を国民が選び、その中で総理大臣が選ばれる、いわゆる「間接選挙」ではなく、国民の投票が直接国家元首を選ぶ1票となる「直接選挙」のシステムであり、その分選挙結果がダイレクトに国民生活に影響を及ぼすので、より真剣に投票する(様な気がします)。そして②は投票活動に一切関係がない我々旅行者にも基本的にはお酒の販売は禁止です。僕が経験した2002年の選挙の時は、まだこっそり売ってくれる商店もあったので、選挙前日に買いだめをして、商店が閉まる選挙の当日は外に出ずにゲストハウスで飲み会が催されていましたが、つい最近の選挙の時に滞在していた人の話では、旅行者にも酒類の一切の販売が禁止されて3日間お酒が飲めなかったとのことです。

そして、アルコールの販売禁止と当日にすべてのお店が閉められるという事は、選挙当日はボリビアの人々は選挙に行くぐらいしかすることがなくなってしまうという事を意味しています。その結果として③のような90%を軽々超える投票率を実現してしまうのでしょう。日本でもこれくらいの投票率があれば社会もずいぶんまともになると思うのですが…。なお、上記のエボ・モラレスさんは国民の圧倒的支持を受け、帝国主義と新自由主義に大反対した政策を掲げて15年以上にわたる長期政権を維持しているそうです。

 

 繰り返しますが、ボリビアに到着早々大統領選挙に巻き込まれた当時の僕には、そんな事情はまったくあずかり知らないところであり、なぜかイスラエル人と日本人の2か国人のたまり場となったゲストハウスで、選挙が終わるのを息をひそめて待っていました。

 

 

第76回「ボリビアの基礎知識」ラパス(ボリビア③)

10ボリビアーノ紙幣に描かれているちょっとクセのありそうな男性の顔はよく覚えています。調べてみたところ、セシリオ・グスマン・デ・ロハスという画家でラテンアメリカの芸術の巨匠のひとりと呼ばれています。

1、2、5ボリビアーノ硬貨、それにその半分の50セント(スペイン語ではセンターボと言います)。ボリビアではこの硬貨1枚でも結構いろんなものが買えました。

 帰国後、「訪れた国の中でどこが一番よかった?」という類の質問を何度となく受けました。それぞれの国で面白さの種類が全然違うので、非常に答えるのが難しい質問ではあるのですが、「もう一度訪れたい国」という事になると、このボリビアを筆頭に挙げなくてはいけません。それぐらいユニークで興味深い国だったのです。どう興味深かったのかはこれから順を追って書いていくことにしますが、とにかくいままでに訪れた国の中でも断トツで異国感が強かったことが言えます。異国感が強い、というと分かりづらいかもしれませんが、あらゆる点で日本とは国を構成するあらゆるものが丸ごと違うということです。例えば、あり得ないくらいの標高、ほとんどが先住民族で占められる民族構成から西洋的な建物が極端に少ない点、その先住民族の普通に着ている民族衣装、高地特有の食文化などなど・・・。そういうものに触れるたびに「ああ、自分は異国にいるんだ」という実感を常に持たせてくれたのです。純粋に旅を旅として楽しむ時、この異国感というのは結構大切なポイントです。旅というのは非日常を楽しむものですが、日本にも存在しているものを旅行中に目にすると、ふっと現実に戻ってしまい、興が冷めてしまう事はよくありますので・・・。そういう意味で旅行者というのはなんとも身勝手なものだなぁとも思いますが。

 話をボリビアに戻すと、まず通貨名がユニークです。ボリビアの通貨は、ドルとかペソとかそういう抽象的な名称ではなく、なんと「ボリビアーノ」というのです。自分の国の名前を通貨名にしてしまうなんて大胆不敵ですね。1ボリビアーノが当時は15円ぐらいだったのですが、路上の屋台では、1ボリビアーノあれば食事が出来ました。日本円にして1食15円という破格の値段で食べられたのは非常にありがたかったです。

 

 

第77回「ボリビアの基礎知識②」ラパス(ボリビア④)

必ずと言っていいほどかぶっているボリビアのおばちゃんのマストアイテム、山高帽。来ている服も民族衣装というには普段着感が強く、さりとて西洋のファッションとは全く違った独自路線を突き進んでいます。

我々日本人の感覚からいくと、リャマの赤ちゃんをミイラにしておまじないに使うということは理解できませんが、世の中には色んな文化があるというお手本のようなものですね。実にユニークとしか言いようがありません。

(先週のつづきです)先週もちらっと書きましたが、ボリビアは南米で最も混血が進まなかった国です。もともと住んでいた原住民のみなさん(日本人に近い顔をしてます)、新大陸にやってきた白人(主にスペイン人とポルトガル人)、強制的に奴隷として連れてこられた黒人(特にブラジルやカリブ海に多い)。南米の多くの国では、この3つの人種が(良くも悪くも)混血を繰り返し、非常に複雑な人種構成をしています。特にブラジルやコロンビアは元々のルーツがまったく分からないくらい混血が進んでいます。逆にアルゼンチンにはもともと原住民があまり住んでいなかったので白人が新しく作った街が多く、人種構成も純粋な白人が多いのが特徴です。首都のブエノスアイレスがちょっとヨーロッパ風の雰囲気なのはそのためです。その一方、ペルーやボリビアは、もともと住んでいた原住民の人たちの文明の中心地だった場所なので混血が進まず、圧倒的に原住民の割合が多いのです。それが大きな理由だと思いますが、昔からの伝統や文化が近代化の波をすり抜けて今でもしっかり残っているのです。

一番わかりやすいのはファッションです。ペルーでもそうでしたが、ボリビアではさらに民族衣装の比率が高く、年配の女性たちは他の国では見かけないスカートの重ね着(三、四枚重ね)をしたり、不思議な山高帽をかぶっています。とはいえラパスのような都会では男性や若い女性を中心に欧米でも見かけるような服を着ている人も多く、世界中のファッションが均質化してしまってるなぁ、とつまらなく感じてしまいました。

 坂道に軒を並べる商店では、アンデス原産の怪しげな野菜やスパイスと並んで、リャマの胎児のミイラがぶら下げられて売られています。祈祷や呪術にでも使いそうな、ほとんど魔女が操る黒魔術の世界ですが、ボリビアではごく一般的なものみたいです。日本で節分のイワシと同じようなものでしょうか。あれだって玄関に魚の頭がぶら下がっているわけですから、外国人が見たら「ぎょっ」とするかもしれませんよね。それはともかく、リャマのミイラをはじめとした様々なまじないグッズが売られている通りを眺めているだけでも、インカの昔からの悠久の時を感じてしまいます。

 

第78回「サンフランシスコ広場」ラパス(ボリビア⑤)

ラパスの街中、サンフランシスコ広場の近く。憲法上の首都はスクレという街ですが、立法府と行政府があるラパスが事実上の首都と言われています。なお三権分立の残りひとつ、司法の最高機関である最高裁判所はスクレにあります。ややこしいですね。

世界最貧国のひとつであるボリビアは、結構治安が悪いと言われています。事実、大統領選挙の最中は街の雰囲気も殺伐としていましたし、それが終わっても、4,000m近い標高が原因の息苦しさと埃っぽい街の雰囲気も手伝って、ラパスは陽気な町という印象はありません。

ラパスのちょっと怖い一面は、入国前から色々聞かされていました。特に印象的だったのはグアテマラにいる時に習っていたサルサの先生から聞いた話ですが、ボリビアのラパスのバスターミナルでバスを待っていたら、突然首絞め強盗に襲われたそうです。首絞め強盗は後ろから羽交い絞めにして頸動脈を止めて気を失わせ、その間に身ぐるみを剥ぐという、かなりえげつない強盗スタイルなのです。そのサルサの先生は男性なのですが、羽交い絞めにされてしまうともう抵抗することはできず、なすすべなく気を失っていったそうです。もうろうとする意識の中で目線を遠くにむけると、バスターミナルでバスを待つ原住民の女性の姿が目に入ったそうですが、巻き込まれるのを恐れて見ないふりをしていたそうです。結局腹巻のようにお腹に巻いていたパスポートを入れたマネーベルトまで目ざとく見つけて盗られてしまい、文字通り身ぐるみはがれた状態で意識を取り戻したそうです。

その話を聞いた時、「人通りのない場所だけじゃなくて、人目のある所でも普通に犯罪に巻き込まれるということかぁ・・・」とちょっと絶望的な気持ちになったのを思い出します。ある部分防ぎようがない事でもあるので、常に緊張感を持って後ろを振り返るように注意を向けておく以外にありません。

さてそんな(個人的)厳戒態勢の中、ラパスの街歩きを開始しました。一番標高が高いエリアが標高4,000mを超えるとはいえ、ここまでアレキパ(2,335m)→クスコ(3,400m)→プーノ(3,827m)と順調に高度順応をしてきたので高山病の症状は全く出ません。しかしどこを歩いても坂道にぶつかるので、すぐ息が切れます。歩き過ぎるとしんどいので、いつもゲストハウスの近くのサンフランシスコ広場というところへご飯を食べに行っていました。中心では大道芸なども頻繁に行われるらしく、人だかりができるような、ラパスの中心部にある広場です。その広場にずらりと並んだ露店では1ボリビアーノ(約15円)でご飯が食べられました。ゆで卵が入った三角形のパイとか、イタリアンとはまた違ったやぼったい味のトマトソースがかかったマカロニとか、そういうファーストフード的なものがメインでした。味は・・・まあ値段相応というか、お腹は満たされるというぐらいのものです。

外出に緊張が伴うようになったので、部屋でも時間が潰せるようにサンフランシスコ広場の近くの楽器屋さんで小ぶりのガットギターを購入しました。このギターがパラグアイでちょっとしたトラブルを引き起こすのですが、その事はまた後日・・・。

 

第79回「シンガス・コンガス問題」ラパス(ボリビア⑥)

こんな感じの飲み水タンクもよく見かけました。とにかく生水を摂らないように気を付ける必要があります。暑くないのでそんなに喉は渇きませんが・・・。

 生水はあまり飲まないようにしていたので、お店でペットボトル入りのミネラルウォーターを買って飲もうとしたとき。フタをあけると、プシュッと炭酸飲料のような音がしました。そういえばペットボトルがパンパンに膨らんでいたのでおかしいとは思ったのですが、これはきっと標高と気圧の関係で、富士山の山頂でスナック菓子の袋がパンパンになるのと同じ原理で膨らんでいるに違いないと勝手に解釈していたのですが…。飲んでみると見事にただの炭酸水でした。

 当時は今のように甘くない炭酸水が普通に店頭に並ぶ時代ではなく、おしゃれに敏感な一部の人たちがペリエとかそういう炭酸水にレモンを絞って飲んでいた、炭酸水黎明期とも言える時代だったもので、僕も甘くない炭酸水というのは全く頭にありませんでした。水は水であり、水のペットボトルに炭酸水が入っているわけがない、という頑固なまでのすり込みがこのような形で悲劇(?)を引き起こしてしまったのです。甘くない炭酸を脳が全く受け付けなかったようで、苦痛に感じながら飲み干した記憶が残っています。当時は全然知りませんでしたが、水を販売している多くの国で、炭酸入りと炭酸なしの2種類のミネラルウォーターが普通に売られているのだそうです。

さて、ここで問題になってくるのが、どうやって見分けるか、です。見た目やラベルの雰囲気は全く同じ。小さく「con gas」「sin gas」と書かれている文字を見て見分けるのです。Conは英語のwithinと同じ、つまりガスが含まれますよ、という意味です。そしてsinは同じく英語のwithoutと同じでガスなしの、という意味になります。「コンガス」か「シンガス」か、その文字を注意深くみて、炭酸入りを間違って買わないようにものすごく気を付けていました。実は、炭酸が入っているかどうかは、低地だったら手に取ればすぐに感覚的に分かります。普通の水だとペットボトルはべこべこの状態だからです。しかし高地ではやはり富士山現象が起きて気圧でパツパツになっているので、ぼんやりしているとうっかり炭酸入りを買ってしまうという憂き目に遭うことになります。

と、炭酸水をボロカスに言っていますが、これもビール以外の炭酸は甘いもの、というすり込みのなせる業だったので、甘くない炭酸水も美味しい、という風に慣れてしまえば、実はすごく美味しいと最近になって感じるようになりました。今では炭酸にレモンを絞って飲む飲み物はちょっとしたご馳走ですらあります。

夏場に甘くない炭酸水をおいしく飲むたびに、このボリビアでのシンガス・コンガス問題を思い出します。

 

第80回「エル・アルト」ラパス(ボリビア⑦)

←ラパス市とその上部に位置するエルアルト地区のイメージ図を書いてみました。すり鉢の底にある映画館に一度映画を観に行ったのですが、「スターウォーズ・エピソードⅡ」を上映していました。英語音声、スペイン語字幕、意味はよく分かりませんでしたが、とにかくやたらとうるさい映画だったのを覚えています。

街歩きの延長として、すり鉢状になった街の縁の部分(エル・アルトと呼ばれています)で開かれていた古着市に出かけました。これから標高5,000mのアンデス越えがあるので、今持っている防寒具だけではとても乗り切れそうにないからです。土砂降りの雨を吸いこんだように重いコートと、ニット帽と分厚い靴下、そしてサングラスを購入。全部で31ボリビアーノ(500円弱)という破格の安さでした。

 このエル・アルト(スペイン語で高地の意味)はもともと何もない場所でした。すり鉢状の街、ラパスの標高が低くて過ごしやすい底の部分に商業街や白人住居が立ち並び、すり鉢の斜面部分を上へ上へと居住エリアが拡大した結果、貧困層である原住民族がすり鉢の一番上の平地まで居住地域を拡げ、街が拡大していきました。白人層が住むすり鉢の底は標高3,500m。原住民がエリアを拡大したエルアルト地区は標高4,150m。なんと同じラパス市内で600mという信じられない標高差が生まれることになりました。ラパスの国際空港はこのエルアルト地区にあり、世界で最も高い場所にある国際空港として知られています。日本から全く高度順応せずにこの空港までやってきたら、症状の程度は別としてほとんどすべての人が高山病にかかると言われています。テレビの撮影でこのエルアルト地区にやってきたリポーターの日本人も、かなり重い高山病に罹っていました。空港には、重度の高山病患者のための酸素ボンベが用意されています。(高級ホテルにもこの酸素ボンベは常備されています。僕が泊まっていた安宿には、当然ありませんでしたが)

 この状況がやはり不自然だったのでしょう、このすり鉢の外側にはみ出た部分は、ラパス市から切り離されて1985年にエルアルト市として独立してしまいます。1900年の頭には無人の荒野だったエルアルト、今では人口100万に迫る様な巨大な都市に(こちらも世界一番高い場所にある都市と言われています)膨れ上がってしまいました。このエルアルトに住むのは、アンデスの寒村に暮らすほとんど収入源の無い農家出身の人たちだと言われています。現金収入のほとんどないエリアからボリビアンドリーム(とでも言うのでしょうか)を求めて都市部に流れてくるこの構図は世界共通です。そこで繰り広げられる悲喜こもごもの出来事もまた、世界共通なのでしょうか。

 とはいえ、このエルアルトの縁から見下ろすラパスの街は絶景そのものです。高地のため、異様に青く澄んだ空と全体にくすんだ茶色のすり鉢状の市街地とのコントラストが本当に美しかった。古着市で買ったコートやなんやを抱えながら、この絶景をしばし眺めていました。

 

 

 

ティワナク遺跡の謎の石像。よく見ると右手に瓶ビール、左手にソフトクリームのようなものを握りしめています。千年から2千年前にまさかそんなものがあるはずもなく、これが何を握っているのか、大いに盛り上がりました。

第81回「刑務所に入る」ラパス(ボリビア⑧)

サンペドロ刑務所の中。といっても刑務所内は撮影禁止だったので、これはインターネット上で拾ってきた実際の刑務所の様子の写真です。本文でも書いていますが、刑務所というより安宿という雰囲気が充溢していました。

 ラパスから車で行ける範囲には、インカ帝国以前の文明の遺跡であるティワナク遺跡や月の谷と呼ばれる奇岩地帯など、色々観光地が目白押しです。特に2000年以上前から始まった(南米の縄文時代ともいえる)ティワナク文明の面影が残るティワナク遺跡は世界遺産にも登録されており、謎の石像などもあって面白かったです。しかしまあそういう普通の観光地に行くのも興味深いといえば興味深いのですが、紋切り型と言えば紋切り型なわけで…。

 一応どちらも行ってみましたが、せっかくなので今週はもう少し珍しい場所について書いてみましょう。驚愕の現地ツアー、名づけて「サンペドロ刑務所潜入ツアー」。読んで字のごとく、刑務所の中を見せてくれるツアーです。この刑務所、囚人による自治がおこなわれているらしく、このツアーも囚人が自分たちで企画して観光客に刑務所内を案内するツアーを敢行しているそうです。(※)

 中を見せてもらってもこの刑務所がどういうシステムで運営されているのかよく分かりませんでした。というのも看守らしき人がいないのです。それどころか、格子窓もかんぬきもなく、雰囲気が妙に自由な感じでした。そして売店やレストラン、ビリヤード場がありました。帰って調べてみると、警察は刑務所内で起こる囚人たちの問題に一切干渉しないそうです。囚人たちは民主主義的に代表を決め、刑務所内だけで通用する法律を作り、そこに自由に出入りできる自分の家族とともに暮らしているそうです。そして囚人であるにもかかわらず、仕事の時間になると、外に出かけていき、仕事が終わるとまた刑務所に帰っていくそうです。「・・・これのどこが刑務所なんだろう?」と疑問に思わざるを得ません。房ごとに7つのサッカーチームがあり、リーグ戦形式で試合をするそうで、なんか楽しそうですね。

 カナダからやってきた2人組の女性旅行者がコカインの不法所持で捕まっていました。その女性たちがやたら陽気で、そこでの生活が自由な雰囲気に満ち満ちていたので、まるで刑務所の中が自由な空間(しゃば)で、刑務所の外の我々の生活が、日常という見えない鎖で繋がれた牢獄のように感じられてしまいました。もちろん、これは言葉のあやで、実際には、いかに自由な雰囲気があっても刑務所の暮らしは不自由なのでしょうが。

 この刑務所ツアー、僕が参加した時は料金が78ボリビアーノ(1200円ほど)でした。この料金が刑務所の運営に使われるのかと思うと、ボリビアという国のしたたかさやたくましさを感じます。

 

※現在は表向きはこのツアーは廃止されているらしいのです。もちろん、こういう国は裏でお金さえ払えば何とでもなるので、興味のある方は中に入るのは不可能ではないそうですが。僕が訪問した時は、まだ普通に旅行代理店が斡旋していました。

 

第82回「凍死寸前の夜行バスに乗って①」ラパス~ポトシ(ボリビア⑨)

標高4,000mを超えるアンデス山脈のど真ん中を、ひたすらバスで突き進みます。こうして見ているとのどかな感じもしますが、夜になるとその寒さは尋常ではありません。

 首都ラパスを後にして、南東440㎞に位置するポトシという町に向かうことになりました。ポトシは標高4,067m。人が住む都市としては世界最高地にある都市の一つです。道中のバスはボロボロで、アンデス山中のでこぼこ道をゆっさゆっさと揺れながら走っていきます。疲れと眠気と悪路が重なって体調を崩し始めていた僕は、ひたすら早く到着してくれることだけを祈りながらシートにうずくまっていました。なのでバスからの景色はあまり覚えていません。どちらにしても背の低い草がまだらに生えた、荒涼とした高原地帯がいつまでもいつまでも続いているだけです。「旅行者の感傷」とも「世界の車窓から」とも「何でも見てやろう」とも無縁の、本当につらいバス移動でした。陽が完全に落ちて夜になると、この悪条件にさらに寒さが加わってきました。富士山の山頂よりも高い場所を行くので、夜の寒さは尋常ではありません。窓のどこからか入ってくるすきま風は、体温をどんどん奪っていきます。なすすべなく、寒さに骨身をさらけ出しているだけでした。到着は次の日の早朝の予定なので、この悪条件の中、とにかく眠るしかありません。「死ぬんじゃないかと思うほど寒かった」と日記にも書いてありますが、本当に生命の危機を感じました。

 夜を徹して走り、寒さに震え、体中に振動を受け続けながら何時間ぐらいうずくまって耐えていたでしょうか。気がつくと、夜明けになっていて、窓の外を見ると遠くに人の暮らしている場所(それを私たちは町と呼ぶ)が見えてきました。どうやらそこがポトシの町のようです。今でこそうらぶれた元鉱山街ですが、かつては南半球でもっとも繁栄を極めた南アメリカ最大の都市だったのです。正面に見えるなだらかな山は、街の象徴「ポトシ銀山」です。しかしポトシに到着した時は、凍死するんじゃないかとなかば本気で思っていたので、そんな感傷に浸っている暇もなく、タクシーでホテルオルーロという宿にチェックインして、朦朧としながらベッドに倒れ込みました。それが午前6:30のことです。足が凍えて、痛くなってきます。ほっておいたら凍傷になってしまうんじゃないかしら、と不安になったものの、身体が動かないのでどうしようもありません。意識がほどけるようにそのまま眠ってしまいました。さて、このあと一体どうなりますことやら。(来週につづく)

第83回「凍死寸前の夜行バスに乗って②」ラパス~ポトシ(ボリビア⑩)

耐えに耐えてたどり着いたポトシの街。ほこりっぽい乾いた街でした。奥になだらかな稜線を描いているのが、かつては世界の銀の半分を産出したとも言われる、富の山「ポトシ銀山」です。

(先週からのつづき)

凍死寸前の寒さの中、ほとんど一睡もできずに夜行バスのなかで耐えに耐えてたどり着いた鉱山の街、ポトシ。不眠と振動と寒さで満身創痍の状態でチェックインしたホテルに倒れ込んだ赤池。それが午前6:30のことでした。それから一体何が起きたのでしょうか。

 

午後3時に目が覚めました。まだ寒さは厳しいものの、とにかく身体は何ともなかったので、起き出すことにします。身体のあらゆる器官が、正常に働くのを拒否しているようなもどかしさを感じます。バスに同行していた日本人旅行者のSさんがペットボトルの水を自前のバーナーで沸かしてインスタントコーヒーを作ってくれました。水すらほとんど口にしていなかったので、このインスタントコーヒーが信じられないくらい美味しかった。いや、美味しかったという表現は正確ではありませんね。世の中にこんなに素晴らしい飲み物があるのだろうか、と崇拝したい気持ちになりました。まず暖房すらない安宿で、ごわごわの毛布にくるまりながら凍傷の危機を感じながら眠っていたので、温かいというだけで涙が出そうになるくらい嬉しかった。この感覚は普通に日本で暮らしていると、なかなか縁遠い感覚だと思います。そもそも、口にコーヒーを含む前から、カップを通して伝わる温かさに感動していたのです。うーん、そんな感覚、最近はとんとご無沙汰ですね。

砂漠の水が貴重で尊いのと同じで、人間は基本的に無いものねだりです。それとちょうど反対の感覚が、韓国ドラマによく登場します(笑)。韓国の現代もののドラマでは、絵に描いたような大富豪の家庭がよく出てきますが、彼らは来る日も来る日も分厚いステーキ(やその他さまざまなご馳走)を食べているんですね。しかしながらそれを見ていてもちっとも美味しそうに見えません。ステーキが日常になってしまっているからでしょう。どれほど高級な食べ物でも、それが日常になれば人間は慣れて感動を覚えなくなるものです。それは誰だってそうですよね。だから単純にドラマの中の大富豪の皆さんを非難することはできません。しかし、慣れてしまえば、そしてそれを当たり前だと感じてしまえば、ステーキだってありがたくも何ともないわけです。それと比べて、ネスカフェのインスタントコーヒーは、恐らくスプーン一杯10円もしないような切ない飲みもののはずですが、ある意味極限状態に置かれて飲むと、自分の記憶の中に燦然と輝くほどの感動を植え付けることだって可能なのです。これに似た感覚は富士山の9.5合目でレトルトカレーを食べた時にもありました。

 

 たった一杯のインスタントコーヒーで、再び気力を取り戻したので、とりあえずポトシの街の様子を探りがてら散策してみることにしましょう。次回はポトシの街をご案内します。

 

 

 

第84回「人を喰う山」ポトシ(ボリビア⑪)

ポトシの町の小さな広場。往時の繁栄を偲ばせるものは何も残っていません。そして町には人影もあまりありませんでした。

 ポーランドのアウシュビッツ収容所や広島の原爆ドーム、奴隷貿易の玄関口となったセネガルのゴレ島など、世界には「負の世界遺産」と呼ばれているものがいくつかあります。これらの世界遺産は、人類が犯した過ちを二度と繰り返さないという目的で登録されているのですが、これからご紹介するポトシ銀山も、アウシュビッツや原爆ドームと同様「負の世界遺産」のひとつに数えられている非常に悲しい歴史を持つ鉱山なのです。なぜ負の世界遺産になってしまったのかというと、銀の採掘に関してスペイン人が非常に劣悪な環境で原住民インディオに強制労働を課し、一説によると800万人が採掘中に命を落としたとも言われているからです。いくらか大げさな数かもしれませんが、それにしても800万人というのは尋常な数ではありません。そのため、「人を喰う山」と呼ばれ、現地の人々から恐れられたそうです。当時の人口は約16万人。これは一見少なそうに見えますが、この時代(1550年頃)の世界の人口はロンドンで7万人、パリで20万人程度なので、ヨーロッパの大都市圏と肩を並べる人口がアンデスの山中深くに集まったことになります。さながらゴールドラッシュのように、富を求めて多くの人が集まり、また強制的に連れてこられ、信じられないくらい大量の銀を掘り出しました。

 今ポトシの街を歩いても往時の繁栄ぶりは残っていません。ほこりっぽい乾いた町には活気と呼べるものはほとんどひとかけらも残っていないかのようです。メルカドと呼ばれる市場では、生活に必要な最小限のものしかなく、食堂のご飯も首都ラパスのような豊かさは感じられません。それもそのはず、今から100年以上前に銀はすっかり枯渇してしまったからです。19世紀末からは錫(すず)を大量に採掘するようになり、一度街に活気が戻ったものの、今ではその錫もほぼ枯渇しており、世界遺産に登録されたことで訪れるようになった観光客相手の鉱山ツアーで細々とやりくりしているのが町の現状のようです。そして僕もご多分に漏れず、この鉱山ツアーに申込みました。ポトシに来てポトシ銀山に行かなければ、何のために来たのか分かりませんから。世界の近代史を陰で動かし、多くの死者を飲み込んだ恐怖のポトシ銀山内部にいよいよ潜入です。

(次回につづく)。

第85回「銀山内部に潜入」ポトシ(ボリビア⑫)

←ポトシ銀山の正面から。銀山ツアーに向かう旅行者たちが中腹の入り口に向かってぞろぞろと歩いていきます。しかし空の深い青色が本当に印象的でした。ここで強制労働させられていたインディオ達も同じ色の空を見ていたんでしょうか?

←ティオと呼ばれるおじさんの守り神。炭鉱夫の鉱山での安全を見守っているそうです…。これくらいクセのある守り神でないと、ポトシのような危険な場所で守り神は務まらないのかもしれませんね(笑)。

←銀山内部にて。クレバスのような深い亀裂の中に降りていかされている赤池の図。ただのツアーでこんな危ないところまで行かされるとは思いも寄りませんでした。

 標高4,000mを超えると宇宙が近づくからでしょうか、空の色が変わります。青は青なのですが、非常に深みがあり、見ていてちょっと怖くなる深い青さです。深海を覗いているような気分になります。そんな深い青色と対照的な色彩を持つ、ポトシ銀山の山肌の白っぽい茶色。青と茶のコントラストがポトシの色のすべてといっても過言ではありません。

 さて、いよいよ鉱山内部に潜入です。入る前に簡単な注意事項を受けます。中では今も炭鉱夫が細々と錫を掘っています。彼らにたばこやコカの葉などのお土産を持っていくのが慣習となっているのだそうです。各自ヘルメットをかぶって出発、と思いきやここで大問題が発生しました。僕の頭が小さすぎてツアー客用のヘルメットに合うサイズのものがなかったのです(涙)。しかしヘルメットなしで行くのは危険すぎます。結局一般の炭鉱夫が使う形の違う色のくすんだヘルメットなら何とかかぶることができたので、多少ブカブカですが我慢してそれを借りることにしました。周りの人たちはみんな赤や黄色の目立つヘルメットなのに、一人だけグレーのようなベージュのような変な色のヘルメットをかぶったものだから、目立って仕方がなかったです…。

 

 銀山の内部は、入った瞬間から空気の薄さがストレスになりました。鉱山内の様子自体はとりたてて変わった所はない至って普通の鉱山なのですが、ここは地の底ではなく標高4,000mなのです。空気の薄さが尋常ではありません。閉所の圧迫感と実際の空気の薄さで呼吸をしている気がしないのです。こんな状態で「超」がつく肉体労働である鉱山労働をするなんて自分には絶対に不可能に思えました。通路は狭く、しかもいたるところに縦穴が空いており、気を抜くと落ちてしまうので緊張を強いられます。しかもぶかぶかのヘルメットが視界を遮るので歩きにくいことこのうえありません。実際の鉱山での作業もさせてもらいました。地の底にある滑車をハンドルで回して上まで上げてくるという、なかなかの肉体労働です。この過酷な状況が何倍も作業を難しくしていると感じました。

他の鉱山とちょっと違うところもあります。それは鉱山の入り口にティオと呼ばれるおじさんの守り神の像が置かれていることです。鉱山での安全を祈願して、朝と夕方にお祈りし、このおじさんの像にたばこをくわえて火をつけてあげるのが習わしとなっているそうです。

 

 1時間ぐらい鉱山の中をあっちこっち連れまわされて、ようやく下界に出ました。外の空の青さを見た時は、本当にうれしかったです。ああ、これが自由か、となかば本気で思いました。鉱山ツアーというより罰ゲームと呼ぶ方がはるかにふさわしい、恐怖の鉱山潜入が終わりました。やれやれ。

 

 

第86回「世界を変えたポトシ銀山」ポトシ(ボリビア⑬)

←立派なアゴが特徴のカール5世の肖像画。ポトシからやってきた銀を使っての彼の治世での戦費の乱用が、結果的に世界を今のような形にしてしまったのです。コロンブスの活躍などで華々しく見える大航海時代は、裏で暗黒の歴史が渦巻いています。

 ここまでポトシの町とポトシ銀山についてややしつこく書いてきましたが、それには理由があります。実はこのポトシ銀山が僕の大学の卒業論文のテーマだったのです。もう少し詳しく書くと、コロンブスが南米大陸(正確には西インド諸島ですが)に到達した1492年以降、スペインとポルトガルによる植民地支配の歴史が始まりますが、それはとりもなおさず、南米大陸の貴金属(金や銀)をヨーロッパに送り込む歴史に他ならないのです。インカ帝国というと大量の金の装飾品で知られているので、スペイン人は金をたくさん簒奪(さんだつ)した、という誤解があるのですが、奪われた金の量は実は歴史を塗り替えるほどではなくて、そのほとんどが銀だったのです。しかもそのうちのかなりの部分がこのポトシ銀山で採掘された銀でした。そのポトシの銀がどのように掘られ、どのように運ばれ、ヨーロッパに、ひいては世界全体にどのような影響を与えたのか、というのが僕の卒論の主題だったのです。テーマだけは壮大ですよね(笑)。

 ポトシを中心に大量の銀がヨーロッパに運ばれるのですが、一体どれくらいの量が流れ込んだのかというと、当時のヨーロッパに存在していた銀の総量と同じくらいの量だそうです。つまり比較的短い間にヨーロッパのお金の量が一気に2倍に膨れ上がったのです。当時は経済成長の停滞した中世と呼ばれる時代でした。一部の王族以外や貴族以外、庶民には余分な富を持つ者はいなかったのです。そこに空から雨が降ってくるように、大量のお金が流れ込んできたらどうなるでしょうか?まず、ポトシから来た銀は、植民地支配をしていたスペインの王様の元へ届けられます。カール5世という大きなアゴで有名な王様とその息子フェリペ2世という2人のスペイン王が、フランス、オスマントルコ、オランダなどを相手にヨーロッパ中で絶え間なく戦争をし続けたため、ポトシの銀はその膨大すぎる戦費に全て消えたと言われています。さてその消えた戦費はどうなったか、というと武器を売りさばいていた新興商人(後のロスチャイルド家など)の懐に入ります。商人たちはそれまでお金を持っていなかった平民階級に属していた人たちだったのですが、歴史上初めて大金を手にした平民が現われてくるのです。彼らのお金と産業革命による技術の進歩が車の両輪となり、世界は一気に金がすべての社会、つまり現在のような資本主義社会へと突き進んでいくのです。資本家と労働者。富める者と貧しい者。王様や貴族のような一握りの特権階級ではなく、お金のある庶民がお金のない庶民を金で支配する、現代社会の抱える大きな問題は、おおざっぱに言うとこのようにして生まれたのです。そして、そのもっとも大きな起爆剤となったのがポトシの莫大な銀なのです。コロンブスの航海の思わぬ副産物として飛び出した大量の銀は、資本主義という構造を作り出し、植民地支配や世界大戦を引き起こし、そしてさらなる金を産む技術革新を経て、核開発や遺伝子組み換え技術などへ、さらに言えば福島の原発事故にまで一直線につながっているのです。爆発的な技術革新、地球の温暖化とそれに伴う異常気象の多発、戦争と格差。17世紀以降に起きた歴史的な悲劇のすべては、必要以上に増えたお金に導かれて起きたことなのです。そしてそのお金のかなりの部分が、悲惨で過酷すぎる労働条件のもと、ポトシ銀山から世界中にばらまかれた、ということはもっと記憶されてもいいことだと思います。

 大学時代の卒業論文では、僕自身の勉強不足もあり、そのような結論までたどり着けなかったのですが、今にして思うとこのように結論付けるのがもっとも筋が通っているように感じます。

 

《このお話の教訓》お金は急に増えすぎると、何事につけてロクなことがない。

 

第87回「ウユニの町へ」ウユニ(ボリビア⑭)

① ウユニの街並みです。こうやって見ると世界有数の観光地ウユニ塩湖があるところとはちょっと思えませんよね。ここから車でかなり走らないと塩湖は見えてきません。

② 列車の墓場。廃棄された列車がこんな風に荒野に延々と打ち捨てられている光景は、寒々としていてあまり気持ちのいいものではありません。

③ 列車の墓場に転がっていた車輪に乗っかって記念撮影する青池さん。それにしてもこうして見てみると、呆れるくらいに何もない場所ですね。

 ポトシでの鉱山ツアーを終え、再びオンボロのバスで移動すること半日あまり。バスはウユニという町に着きました。ほとんど茶一色のモノトーンの町には活気というものがなく、塩湖でとれる塩に関わる仕事をしている人のほかは、あまり数が多いとは言えない観光客とその観光客相手に塩湖ツアーを斡旋する旅行代理店が数件あるだけでした。僕たちは、ウユニ塩湖を経てアンデス山中で一泊し、その後国境を越えてチリの国境の町カラマまで行く、というツアーに申し込みました。

 今でこそ南米旅行のハイライトのひとつに挙げられるほどのメジャーな観光地になったウユニ塩湖ですが、僕が旅をしていた2000年代前半にはまだそれほど有名ではなく、まさに知る人ぞ知るという印象の隠れた名所でした。実際のところ僕も、ウユニ塩湖に行きたかったというよりはチリへと抜けるアンデス越えのルート上にウユニ塩湖があったのでついでに訪れたという感じです。実際に行ってみるまで、あんなにスケールの大きな、そして異世界な場所だとは想像もしていませんでした。

 

 ウユニ塩湖を行く車は、そのほとんどがTOYOTAのランドクルーザーでした。悪路に非常に強く、壊れにくく、そのうえ構造がシンプルで修理がしやすいというのがその理由だそうです。確かにだだっ広い塩湖を抜けて5000mを超えるアンデスの山中を通ってチリの国境まで行く途中で車にトラブルが起きたら、命の危険さえあるかもしれません。こんなところでも日本車が活躍してるのか~としみじみ思います。

 

 朝の10:30に宿までピックアップしてもらって、まずはセメンタリオ・デ・トレンに行きます。「セメンタリオ・デ・トレン」とは直訳すると「列車の墓場」という意味です。つまり使われなくなった列車が何十両も大量に廃棄されているのです。塩が貴重だった植民地時代にここまで鉄道を敷き、ヨーロッパへと輸出していたのでしょうか。とにかく尋常ではない数の列車がずらずら並んでいます。そしてみな一様に赤さびに覆われてしまい、ちょっと不気味です。いくら土地があるからと言って、こんな風に列車を捨てるのはちょっとまずいんじゃないのかなぁ、と思いつつ、転がっていた車輪に座ってちゃっかり記念撮影をしたりしていました。

 さていよいよ塩湖へ向けて出発です。塩湖でのことはまた来週。

第88回「鏡の世界」ウユニ(ボリビア⑮)

① 乾季なので、基本的には塩湖には水はありません。こうして一面真っ白い大地が広がっています。

②  世界で一番平らな場所、ウユニでは数センチの雪解け水が表面にたまると、このようにして湖面がすべて鏡のようになります。

③ 塩湖に浮かぶ有名な島その名も「さかな島」。魚ではなくサボテンが大量に生えています。きっと塩分に強いのでしょうね。巨大なものだと5メートル6メートルはザラにありました。

 現在ではマチュピチュと並ぶほどの人気観光地と化したウユニ塩湖。しかし実はウユニ塩湖にあまり期待していませんでした。それには理由がありまして・・・。ウユニ塩湖の魅力といえば、なんといっても塩湖の表面に雨季の雨が数cmほどたまり、その雨水が鏡面の役割を果たすことで塩湖が空の風景を完全に映しこんで、地平線を中心に上下に全く同じ風景が描き出されるという、その幻想的な光景にあります。ネット上の写真などで見ていただくと分かりますが、この世のものとは思えない世界がそこには広がっています。しかしその幻想的な光景は1年のうち、雨季の数か月にしか起きない現象で、何とも残念なことに僕たちがボリビアに滞在していたのは雨の降らない乾季でした。つまり、塩湖はただひたすら真っ白な大地が地平線まで広がっている(それはそれで壮観だと思いますが)だけなのです。まあどうせ乾季なんだから過剰な期待はしないでおこう、と思いながら車で走っていると、地平の向こうに白い大地が見えてきました。案の定、水のない白い大地がどこまでも広がっている、のかと思いきや、よく見てみると、その奥は一面鏡を張り巡らしたように地面に雲が映っています。その上を車で走ると、まるで飛行機の窓から外を見ているような空を飛んでいる錯覚に陥りました。「なんじゃこりゃー」と車内は大興奮。乾季だからと期待していなかっただけに一同歓喜に沸きます。

 南米はその時(7月)冬でした。雨季で雨が降ったのではなく、気温が上昇していたのでアンデス山脈の雪が少し解けて絶妙な量の雪解け水がウユニ塩湖に流れ込んだようです。事情はともあれ、乾季の白い塩湖と雨季の鏡のような塩湖、ウユニ塩湖の2つの顔が同時に楽しめたのはラッキーでした。

 

 そもそもどうして地面が鏡のようになるのでしょうか。これはウユニ塩湖のとある特殊性が理由です。実はウユニ塩湖は高低差が100km四方でたったの50cmしかないという、「世界でもっとも平らな場所」だからなのです。そのため、雨や雪解け水が塩湖に冠水すると、その水が波も立たないほどに薄くうすーく広がるため、湖面が鏡のようになる不思議な現象が生じるのです。

 

 ウユニ塩湖には、湖だけあって島もあります。最も有名なイスラ・デ・ペスカード(魚島)には巨大なサボテンが生えています。サボテンは塩の濃い場所でも生育することができるんですね。写真を見ていただくと分かりますが、サボテンの高さは軽く5mを超えています。いやはや、でか過ぎですね。

 

第89回「イギリス人と『大富豪』」サン・ファン(ボリビア⑯)

① チリとの国境まで連れていってくれたトヨタのランドクルーザーinウユニ塩湖。

②  ウユニ塩湖を抜けて、再び荒涼としたアンデス山中を突き進みます。サンフアンという集落もこんな山間にありました。

③ ツアーのメンバー全員で記念撮影。手前にいる2人が大富豪に付き合ってくれた人の良いイギリス人カップルです。

 ウユニ塩湖を後にしてしばらく走ると日が暮れてきました。しかしウユニ塩湖以降、アンデス山中の行く手には人工物と呼べそうなものがまったくありません。このまま夜になってしまったら、野宿もやむを得ないのではないかと覚悟していたら小さな建物が見えてきました。ウユニからチリとの国境までの間のアンデス山中に、サンファンという、村とも呼べないような集落があるのですが、見えてきたのはそのサンファンの村だったのです。ここはボリビアからアンデス山脈を抜けてチリへと抜けるルート上にあるキャンプ地(宿営地)のようなもので、大きな集落があるわけではないのですが、簡易な宿泊施設のようなものがあるので、どうやら野宿だけは避けられたようです。平屋建ての小屋のような建物に夕食を食べました。

 チリの国境へと抜けるそのツアーには日本人旅行者が4名とイギリス人のカップルが同乗していました。夕食後にいろいろ話をした後、みんなでトランプをしようということになり、なぜかルールのややこしい「大富豪」というゲームをすることになりました。ちなみに「大富豪」のことはご存知でしょうか。地域によっては「大貧民」とも呼ばれるそうですが、ウィキペディアの説明によると、

「カードをプレイヤーにすべて配り、手持ちのカードを順番に場に出して早く手札を無くすことを競うゲームである。一般的に3-6人程度でプレイするのに適しているが、7人以上や2人でもルール次第ではプレイ可能である。ただし1人ではゲームが成立しない。前回順位が次ゲーム開始時の有利不利に影響する(一度負けると簡単に地位を覆せない)点が特徴で、勝者をより有利にするゲーム性から「大富豪」という俗称が付いた」とのこと。

細かいルールは到底ここに書き切れないくらい複雑なので割愛します。ルール説明を読んでも実際にやったことのない人には全く理解できないかもしれません。それくらい複雑なゲームです。ちょっとカードゲームの「UNO」に似ています。

 

 つたない英語で大富豪のルールを必死で説明します。「大富豪というのはRichmanという意味で、4枚同じカードが揃ったら革命(Revolution)を起こすことができて、身分が入れ替わり、大富豪が大貧民(Poorman)になって・・・」などと説明しながら、最後には説明するのも大儀になってきて、「もうとりあえずやってみたらええねん!」というわけで、よくルールが分からないイギリス人2人をまじえてトランプゲームに興じました。「ババ抜き」とか「七並べ」とか「ポーカー」とか、もっと単純なルールのものもあったと思うのですが、何でよりによって「大富豪」のような複雑なゲームを選んだのかは今も謎のままです。そもそも日本人同士でも、地域によってルールが違ったり、こだわりの強い人がいたり、となかなか一筋縄ではいかないゲームです。複雑な戦略などもあり、その熱中度はトランプゲームの最高峰といっても過言ではないと思います。イギリス人たちも楽しんでくれたようです。あとで調べてみると、外国にも「大富豪」に似たカードゲームが色々あるそうです。外国ではそのゲームが「大統領」という名前だったりするそうで、ちょっと笑ってしまいました。

第90回「満天の星空」サン・ファン(ボリビア⑰)

スミマセン、写真は撮ってないのでこんな感じ、という想像図です。

 トランプ遊びも終わり、なごやかな雰囲気のまま、さあ就寝という事になりました。ここのところの記憶がちょっと曖昧なのですが(日記にも書いていない)、たしか布団を敷いて地べたに雑魚寝したような記憶があるのです。南米ではホテルでも安宿でもベッドで寝るのが基本なので、布団で寝るというのはちょっと変な気もしますが、とにかくおぼろげな記憶では布団をゴロゴロと同乗者みんなで寝ていた記憶があるのです。

 

 電気を消して真っ暗になった部屋で、高地の寒さも手伝ってか、ふと用を足したくなった僕は、外の庭にある「コ」の字に石を積んだだけのシンプルな屋外トイレに行きました。辺りは当然のように真っ暗で、そこまでたどり着けるか、ちょっとびくびくしながらしかし無事に用を足し、ホッとしながら何気なく夜空を見上げると、空全体がぼんやり白く光っています。あれ、夜明けはまだずっと先のはずやけどなぁと寝ぼけながら、ハッと我に返りました。眼鏡を掛けていないからぼんやり白く光っているように見えているけど、もしかするとこの光は全部星なんじゃないのか、と。急いで部屋に戻り、寝ている旅行者のみなさんを踏んづけないように(という記憶があるのでやっぱり地べたで雑魚寝していたと思います)布団に置いておいた眼鏡をかけて、もう一度外へ飛び出しました。そして天を仰ぎました。

 

 空には黒い隙間が見当たらないほどの、文字通り無数の星が夜空全体を埋め尽くしていました。こんなにたくさんの星を見たことも初めてですが、そもそもこんなに空に星があったという事実に開いた口がふさがりません。くっきりと線を引く天の川も、バッチリ見えました。しかし星が多すぎてどれが普段見ている星座なのか全くわかりません。南米に来てから何度も見ていた南十字星も、星が多すぎて一体どれがそうなのか見当もつきません。

 

 どうしてこんなに星が見えたのでしょうか。おそらく、月がなく、人工の灯りが周囲に全くない状態で、アンデス山中という事もあり標高が非常に高く(4,000m前後)、人がほとんど住んでいないので空気がめちゃくちゃ綺麗だったという、星を観察するのにこれ以上ないという位条件が恵まれていたからでしょう。同じような話をチベットに行った旅行者から聞いたことがあります。その旅行者は標高5000mのチベットの山越えの最中、真夜中にバスが故障してしまい、仕方なく外に出てみたら、信じられないくらいの数の星を見たそうです。もし満天の星空を観察したいと思われたら、人里離れた高地を目指して下さい。

 

第91回「荒野に看板が一つ立っていた」ボリビア・チリ国境(ボリビア⑱)

ボリビア側から撮影。看板にはBORIVIAと書かれています。

チリ側から撮影。看板にはCHILEの文字が。一緒に写っているのは、日本人バックパッカーのWさんです。

 アンデス山脈の真っただ中にボリビアとチリの国境があります。ここを越えると隣国チリに入ります。日本人の我々には陸で国が隣り合っているという感覚がなかなか持ちにくいですが、それにしてもこの時の国境越えは、「ほんまにこれを国境と呼んでいいんやろか」と他人事ながら心配になるくらいおざなりなものでした。

 というのも片側に「BOLIVIA」、もう片側に「CHILE」と書かれた大きい看板が一つ立っているだけなのです。写真を見ていただくと分かりますが、その看板以外、見渡す限り何もありません。ひたすらの山と荒野です。これでは国境をなくすことを理想としたヨーロッパ連合(EU)も真っ青の「ザル国境」というよりほかありません。誰でもフリーパスで行き来ができてしまいます。

 もちろん、ちょっと離れたところにイミグレーション(というか小屋のようなもの)があって、そこで出国と入国のスタンプはちゃんと押してもらったので密入国にはなりませんでしたが、それにしても自由な気風に満ちたゆるやかな国境越えでした。

 さて、次の国は細長―い国土で有名なチリに向かいましょう

第92回「高地トレーニングの成果」ビーニャ・デル・マル(チリ①)

チリ側に入国すると一気に標高が下ります。アンデスを降りる最中、朝だったせいもあり、雲海のような霧が大発生。

 マラソン選手が標高の高い場所でトレーニングして心肺機能を高める「高地トレーニング」というのがあります。人間の環境への適応能力を活かし、高地で練習することで運動能力向上につなげるトレーニング方法です。高地とは、低圧、低酸素、低温の環境のことで、効果的な標高は1500~3000mとされています。高地では酸素濃度が薄いため人間の体は酸素を取り込みにくくなり、血中の酸素濃度が低下します。体は環境に適応した酸素濃度を確保するために、体内で赤血球数やヘモグロビン濃度を増加させます。その結果、身体能力の向上により本番でより良い記録を狙うというものです。

 さて、3,000mどころか、4,000m前後のアンデス山中で実に50日以上過ごした赤池。特にトレーニングをしたわけではありませんが、毎日うろうろと街歩きをしたりして、低酸素の中で身体を動かしてきました。はじめのうちはすぐ息切れしてゼーハーゼーハー言っていたのですが、だんだん身体が適応してきたのか、長距離を歩いたり、軽い運動をしても息切れをしなくなってきたので、これはひょっとして高地トレーニングになっているのではないか、と勝手に喜んでいました。そんなこんなでチリに入国。前日まで標高4,000mの峠越えをしていたのに、いきなり海抜ゼロの海岸の街ビーニャデルマルまで1日で下りてきました。久しぶりに目にした太平洋にも感動しましたが、それより楽しみにしていたのが、この海抜ゼロの下界に降りて来て身体がどれくらい軽くなっているかという事だったのです。要するに「エセ高地トレーニングの効果やいかに?」ということです。

 宿に荷を置いて近くの坂道に立ちます。そしておもむろに走ってみました。すると、身体が羽根のように軽く感じられて、まるで自分の身体ではないかのように動きます。登り坂すら、まるで電動自転車に乗っているかのように走ることができました。ジャンプするときなどは、ドクター中松のジャンピングシューズでも履いているんじゃないかと思うほどの跳躍力です。恐るべし高地トレーニング!

しかし、非常に残念ながら、次の日に身体を動かそうとすると、いつもの鈍い動きの身体に戻っていました。たった一日だけの超人体験。あれは一体何だったんでしょうか・・・。

 

第93回「寿司食べ放題」ビーニャ・デル・マル(チリ②)

シーフードマーケットで買ってきた魚介類を寿司職人が調理してくれました。僕が手伝ったサーモンのにぎり寿司は変な形になっています(笑)

 チリでは、「汐見荘」という(バックパッカーの間では)とても有名な安宿に滞在していました。その安宿は、ビーニャデルマルという太平洋に面した港町にあります。いかにも日本の旅館のような名前ですが、それもそのはず、オーナーが山岸さんという日本人の方なのです。そしてオーナーが日本人なので、必然的に日本人旅行者が次々と集まってきて、ここは俗に「日本人宿」と呼ばれる場所となりました。せっかく南米まで来て日本人同士で集まるなんて邪道だ、と言って批判的な旅行者もいますが、僕はガイドブックより安全で確実な旅行情報がリアルタイムで集められる場所として非常に重宝していました。南米の情報はもちろん、これから向かおうとしているヨーロッパからやってきた旅行者からヨーロッパの生情報を集めて旅に活かしたり…。なにより南米で長期旅行をしている旅行者はほとんどが三十代以上の仕事を辞めて旅をしている人たちで、日本ではまず出会えないタイプの人たちです。40代50代の方も多く、普段は聞けない非常に興味深い話をたくさん聞くことが出来ました。むしろ、20代前半でふらふら南米まで来ている僕の方が少数派というか、珍しがられました。

 そんな日本人宿の汐見荘には、とにかく色んな人が出入りしているのですが、僕が滞在していた時はニューヨーク在住の寿司職人が休暇を利用して宿泊していて、すぐ近くにある魚市場で買った新鮮な魚介類を鮮やかな包丁さばきでお寿司にしてくれました。チリといえば、日本のスーパーにもチリ産として輸入されているサーモンが有名で、非常にお手頃な価格手に入るのですが、それ以上にボルテージが上がったのが、殻つきのウニが1つ100円ぐらいで大量に販売されていたことです。四角の木枠に入った高級食材としてのウニしか知らなかった僕は、軍手をして嬉々としてその格安のウニの殻を割って中の黄色い身をせっせと取り出して皿に盛っていきました。皿いっぱいに盛られたウニをスプーンですくってお腹いっぱい食べるという、日本では考えられない贅沢な体験でした。ちなみに品種は日本のムラサキウニやバフンウニではなく「チリウニ」というそうで、日本のウニよりやや色が淡くてみずみずしい味わいです。

第94回「沈没」ビーニャ・デル・マル(チリ③)

 

沈没中によく出かけた隣町バルパライソの魚市場。

ここでウニやサーモンを仕入れていました。

 沈没・・・

①  船などが水中に沈むこと。「台風でタンカーが―する」

② 酒に酔いつぶれること。「二次会の途中で―する」

③  遊びに夢中になって仕事や用事を忘れてしまうこと。「まっすぐ帰宅するつもりが、駅前で―してしまった」

④ バックパッカーが、旅先であまりの居心地の良さにその町から動けなくなってしまうこと。「インド旅行のついでに寄ったネパールのカトマンズで1か月間も―してしまった」

 

チリの港町ビーニャデルマルで、魚介類を思う存分食べたり、時にぼんやりベランダから太平洋を眺めたり、たまたま宿に置いてあった麻雀をしたり、『沈黙の艦隊』という漫画を全巻読破したりして、のんびりとして過ごしているうちに、瞬く間に2週間が過ぎていました。特にどこかに観光に出掛けたわけでもなく、ただひたすらご飯を作って食べて、街をぶらぶらして、海沿いを散歩して・・・旅というよりほとんど生活です。こういう状態のことを沈没といいます(笑)。上に挙げた沈没の意味ではもちろん④に該当します。

 

うーん、今思うと時間感覚がかなり特殊ですよね。今では2週間の休みを取って旅行をすることすら不可能に近いのに、疲れをとってのんびり過ごすためだけに2週間も同じ場所にぼんやりと滞在していたなんて、ちょっと考えられません。でもそのときは特別長く滞在しているという感じではなかったのですが。ちょっと腰を休めて、さあサンチアゴに行こうかと腰をあげたら2週間が経過していただけのことです。まるで浦島太郎ではありませんか。やはりアインシュタインが言うように、時間の感覚というのは伸び縮みしているのでしょうか?

 

第95回「チリから行ける素敵な場所」ビーニャ・デル・マル(チリ④)

イースター島、ではなくてチリの首都サンチアゴで見つけたモアイ像のレプリカ。

 チリから国内ツアーなどで気軽に?行ける素敵な場所と言えば、次の二つが筆頭。それは①イースター島と②南極です。

 イースター島は文字通り絶海の孤島なので、ピースボートなどの船旅か、もしくはオセアニアを周遊するというかなりマニアックな旅行のついでに寄るという裏技の他は、チリのサンチアゴから国内線を使うのが最も一般的な行き方になります。そもそもイースター島ってチリ領なんですね。南米大陸から距離は結構ありますが、そこは国内線なので穏当な価格で行くことができます。憧れのイースター島、あの異形としか言いようのないモアイ像が乱立するワンダーな島。特に海岸線にきれいに数体のモアイが立ち並ぶ光景は一度でいいから見てみたかった景色でした。しかし、ちょっとしたスケジュールの行き違いでこの旅でのイースター島行きはなくなってしまいました。この時、自由な長期放浪が日常となっていた僕の脳内では、「イースター島でもどこでも、また行くチャンスがそのうちあるはずやから、今回はパスしよう」という気持ちが間違いなくありました。そしてそれは大きな間違いだったことに今になって気付かされています。そう、チャンスのある時に行っておかないと、二度と縁がなくなるかもしれない。物理的には生きている限り可能性はゼロではないけれど、自分を取り巻く状況やしがらみや価値観の変化など、様々な事が影響して、行けなくなるかもしれない。若かろうが何だろうが、チャンスがあれば絶対に行かなくてはならない・・・。イースター島に行くチャンスがすっかりしぼんでしまった今の自分なら、当時の自分に無理してでも行っておくようにアドバイスしたと思います。後の祭りですね・・・。

 

 さて、もうひとつの国内ツアー(厳密にいうとどの国の領土でもありませんが)が、南極ツアーです。チリ海軍の潜水艦に乗って南極に上陸できるというパッケージツアーが街中で簡単に申し込めるのです。しかも料金はその当時で1、000ドル程度でした。10万円強で潜水艦に乗って南極まで行けるというのは、ちょっと凄いと思いますが、僕は南極にも行きませんでした。上記の理由で、いまの僕なら、当時のダラダラと旅をしていた自分にこの両方の場所に行くよう強くアドバイスしたはずです。繰り返しますが、今となっては後の祭りです…。南極の露天温泉、入ってみたかったなぁ。

 

第96回「アコンカグア」サンチアゴ~アルゼンチン国境(チリ⑤)

これ

手前に見える山の奥にちょっとぼんやりとしたひときわ高い峰が見えるでしょうか?それがアコンカグアです。

 ビーニャデルマルでの沈没を終え、チリの首都、サンチアゴまでやって来ました。サンチアゴには特別有名な観光地はないのですが、高台に登ると、サンチアゴの街のはるか向こうに雲がかかっていて、その雲の上に茫洋としたアンデスの峰々がそびえ立っています。これはちょっと不思議な光景でした。日本などで普通に山があるべき場所に雲があって、本来なら空が広がっている場所が山で埋め尽くされているのですから。空の面積がずいぶん狭く感じたのを思い出します。

 さて、そのアンデスの峰々の中でもひときわ際立った存在、アルゼンチンとの国境に南米最高峰のアコンカグアがあります。

冒険家の植村直己ファンや登山の好きな方なら常識であるはずの南米最高峰ですが、実は僕はその当時はまったく名前すら知らず、アンデス越えの最中、目の前に異常な巨峰を仰ぎ見ながら、「あれが南米最高峰のアコンカグアだよ」と言われて初めて

南米で一番高い山が「アコンカグア」である事や、それがチリとアルゼンチンの国境にあることなどを知りました。標高なんと6,960m。アジア大陸以外で最も高い山でもあります。

 なるほど、アジアにはエベレストを始めとして、8,000mを超える高峰がいくつもそびえたっていますが、それ以外の大陸には7,000mを超える山さえないという事になります。まあ8,000m峰でなくとも、アコンカグアの6,960mというのは富士山の

実に倍以上の高さであり、日本ではありえない標高であることに違いはなく、登ってみようなどという気には全くなりませんでしたが…。

 しかしながら、実際には他の大陸最高峰(例えばアジアのエベレスト、北米のマッキンレー、アフリカのキリマンジャロなど)と比べると、高度な登山技術を必要としないため、大陸最高峰にしては比較的難易度の低い山だそうです。とはいえ(挑戦しようとするそうたくさん人がいるとは思えませんが)、登ろうという方はくれぐれもご注意下さい。ビエント・ブランコ(白い嵐)と呼ばれる南米特有の悪天候に見舞われると視界がゼロになり、行動困難に陥るそうで、危険な山であることには違いありませんから。

 僕はというと、この南米大陸最高峰をバックに一枚記念撮影をして、すごすごとアルゼンチン側へと降りていきました。そしてそれを最後に、今に至るまで、二度とアンデス山脈に足を踏み入れる事はありませんでした・・・。

【ボリビア・チリ編終了】

 

※来年からはアルゼンチン・ブラジル編が始まります。ゆるーくご期待ください。

 

第97回長旅コラム「情報ノート」

 南米を旅行中、安宿やゲストハウスなどのバックパッカーが集まる場所に泊まると、「情報ノート」と呼ばれるものが置いてあることがよくありました。世界中の旅行者が書きとめていった英語バージョンや、日本人旅行者向けに情報を提供した日本語バージョンなど、いろんなタイプがありましたが、そういうノートには自分が旅行してきた場所のおすすめの宿や安くておいしい食堂の情報、そして逆に治安の悪い場所や、やめた方が良い宿やレストランなど、その旅行者の主観に基づいたありとあらゆる情報が掲載されていました。書いた日付を載せるのが暗黙のルールだったので、その情報が最新の情報なのか、古い情報なのかも見ながら、自分なりにその先の旅行に役立てていました。特にこれから訪れようとしているアルゼンチンやブラジル、そしてその先に予定しているヨーロッパの情報などは本当に役に立ちました。

 そして、暇な時などは、僕が訪れた国の情報を事細かに書いたりもしていました。特に旅行者がほとんど行かない(だからほとんど情報がない)ニカラグアについては、犯罪に巻き込まれた経緯なども交えつつ、色んな宿で書いてきました。南米では、何よりも旅行者は安くてかつ安心して泊まることのできる宿の情報を切実に求めていました。それ以外の情報は宿さえ決まれば、その宿で他の旅行者から、ある程度集める事が出来たからです。宿選びで失敗すると、ぼったくられたり、犯罪に巻き込まれる可能性も高まります。こと、南米旅行に関しては、地球の歩き方に載っている情報だけでは全然足りない、というか、それだけでは危ないのです。そんなわけで旅行者の生の情報である、情報ノートが非常に役に立つのです。(まあ、今や南米にでもタブレット端末を持ち歩く時代ですので、情報ノート文化は廃れているのかもしれませんね。)

 とは言え、もちろん旅行者から直接情報を集めるのが一番です。ほとんど何の印象も持っていなかったヨーロッパのスロバキアという国をじっくり訪れる事になったのも、旅行者からの生の情報がきっかけでした。スロバキアはものすごく素敵な国でした。シリアに行ったことのある旅行者からの話も大いに興味をそそられました。特にクラックディシュバリエという壮大な遺跡とアレッポの旧市街の話を聞いて、いつか訪れてみたいとすっと思っていました。それから10年…。シリアのアレッポは世界で一番危険な街になってしまいました。訪れてイスラムの歴史に溢れた旧市街のエキゾチックな雰囲気を味わうことなんて、夢にも考えられません。良くも悪くも、世界は同じ姿をとどめる事はあり得ないのだと痛感しました。いつか行きたい、と思っている場所は、チャンスがあればすぐ行くべきだと、いまさらながら後悔しています。

 それはともかく、アレッポは今、戦争状態に陥っていて、とても人が住める状況ではないそうです。多くの市民が脱出しているそうですが、アレッポを今も脱出できない市民の方々が一刻も早く安全な場所に避難できて、また元の暮らしに戻ることが出来る事を、ただひたすら祈るだけです。

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