赤池の部屋「世界一周・思い出し紀行」バックナンバー  南米③アルゼンチン・ブラジル編

   南米③ アルゼンチン・ブラジル編 目次

第98回「アルゼンチンの財政破綻」ブエノスアイレス(アルゼンチン①)

第99回「母をたずねて3千里」ブエノスアイレス(アルゼンチン②)

第100回「マラドーナ」ブエノスアイレス(アルゼンチン③)

第101回「納豆食べたい」ブエノスアイレス(アルゼンチン④)

第102回「とりあえず最終回」(アルゼンチン→帰国)

第98回「アルゼンチンの財政破綻」ブエノスアイレス(アルゼンチン①)

アルゼンチンの国民的ビール「キルメス」。最近は日本でも売っていてびっくりします。

 あけましておめでとうございます。早いものでこの連載も3年目に突入しました。今年も気が向いたらのぞいて下さいね。

 

 アンデス山脈を越えてパンパと呼ばれる広大な平原を抜けて、南米有数のワインの産地として知られるメンドーサの街で一泊してバスは南米のパリと称される大都市ブエノスアイレスに着きました。いよいよアルゼンチンの旅の始まりです。しかし、街の様子がどうもおかしいようです。街のあちこちでデモのようなものがおこなわれていたり、アルゼンチンの通貨であるペソが大暴落していたり…。

 実は僕が訪れた時、アルゼンチンはまさに国家財政が破たんしていたのです。どういう事かというと、債務不履行、つまり借金が払えなくなってしまった状態ですね。1000兆円という借金を抱えてもなおアベノミクスで突き進む日本が、遠くない将来陥ると言われている財政破綻。そんな状態に一足お先に陥ってしまったのがアルゼンチンなのですが、ちょうどその混乱の真っただ中に飛び込んだ形になります。アルゼンチンは1ドル=1ペソという固定相場制を長い間維持していたのですが、もともと無理のあった固定相場制が2001年に崩壊してあっという間にペソの価値が1/3ほどになってしまいました。細かい話は抜きにしますが、アルゼンチンの国の借金の額はドル建てなので一気に借金が3倍に膨れ上がった計算になり、あえなく財政破綻…。なんか無茶苦茶な事が起きてたんですね。

 さて旅行者にとってはこれはどういうことを意味するかというと、ドルを持って旅行していた僕としては、アルゼンチンにいる間だけ、お金が3倍に増えていたことになります。ビールは30円、牛肉も1キロ100円ぐらいで買えました。近所にあった韓国料理のバイキングは100円で食べられたり…。泊まっていた宿も1泊4ペソぐらいだったと思うのですが、以前は500円程度だったのが、ペソの暴落で1泊150円ぐらいになってしまいました。まあとにかく常軌を逸した安さでした。もちろん、節約旅行をしていた僕としてはありがたい限りでしたが、ここまで安いと、アルゼンチンで暮らす人々の暮らしを心配してしまいました。「やったー安いぞー」と言って喜ぶには、物と価格のバランスが悪すぎたからです。

 この財政破綻で仕事がなくなったり、生活が立ち行かなくなった人たちがブエノスアイレスの街中でデモをしていたというわけなのですが、グローバル経済に翻弄されてお金が紙くずのようになったり、生活がめちゃくちゃになるということは決して対岸の火事でも他人事でもありません。いつ、どのような形で、何が起こるかはおそらく専門家でも予測の難しい事でしょうが、滅茶苦茶な財政をしている日本でも、遠からず破たんが待っている事でしょう。打つべき手があるとすれば、貯金でも投資でもなく、自給自足しかないのではないでしょうか?なんちゃって。

第99回「母をたずねて3千里」ブエノスアイレス(アルゼンチン②)

主人公のマルコ。よく見ると、南米の民族衣装のポンチョを 颯爽と身にまとっていますね。

 「母をたずねて三千里」という名作アニメがあります。イタリアのジェノヴァに暮らす主人公のマルコが音信不通となった母をたずねて旅をする、というストーリーですが、主人公が三千里(つまり12,000㎞?)旅をしてたどり着いたのが、このアルゼンチンの首都、ブエノスアイレスです。実は僕はリアルタイムでは観ていないのですが、素敵ではありますが、なかなかに厳しいストーリーですね。貧しい人の病気を診てあげられるように、無料の診察所を作ろうとして借金を重ねたマルコの父、ピエトロ。そのピエトロの借金を返すために出稼ぎ先としてマルコの母親アンナが向かった先が、なんとアルゼンチンなんですね。

 この「母をたずねて三千里」は時代が1882年という設定です。1882年、つまり19世紀後半のアルゼンチンがどんな様子だったかというと、スペインから独立を果たし、農業と畜産業で大いに栄え、ラテンアメリカ地域で最も繁栄した国になっていました。国の発展に伴い、労働力が必要になったため、イタリアからたくさんの移民を受け入れたそうです。確かにアルゼンチンにはイタリア系の方が多く暮らしている印象を僕も持ちました。さて、このような時代背景と、母をたずねて三千里の時代背景はぴたりと符合します。母がイタリアからアルゼンチンに渡るのも、その母を探してマルコが船に乗るのも、その当時のごくありふれた風景だったのだと想像できます。

 もちろん、南米にはイタリア人だけでなく、他の国からも多くの人が移民として渡りました。ブラジルの時にも触れるかと思いますが、南米は移民で成り立っているような国です。もともとの先住民(インディヘナの人たち)は、そもそもの人口も少なかったうえに、大航海時代、植民地時代に多くの方が殺され、また移民の白人や奴隷として連れてこられた黒人の人たちとの混血が進み、非常に複雑な人種構成ができあがりました。その多様性を抜きにして現在の南米を語ることなど無理な注文であるわけで…。

 主人公のマルコが旅した時代、アルゼンチンは未曽有の繁栄を誇り多くの労働者を必要としましたが、その後、大統領ペロンとその妻エビータは、大衆からの圧倒的な人気を背景に長期政権を維持します。このように大衆からの人気を利用した政治をポピュリズムと呼んだりしますが、今のアメリカ大統領が政権に就いた手法と同じですね。

 その後、クーデターが起きて軍事政権が始まったり、イギリスと戦争をしたり(フォークランド紛争、アルゼンチンではその島の現地名を冠してマルビナス戦争と呼ばれます)、バタバタとしているうちに、軍事政権が終わり、やがて前回書いたような2001年の経済破たんが起きます。僕が旅行したのはちょうどその直後のことですね。

 マルコが旅した繁栄の時代から、現代の経済破たんまで、歴史は繋がっているんですね。そんなことを思いながら、「母をたずねて三千里」をもう一度観てみるのも面白いかもしれませんよ。

第100回「マラドーナ」ブエノスアイレス(アルゼンチン③)

似てない?マラドーナ人形がお出迎え。

ボカ地区はカラフルな街でした。

アルゼンチンが誇る無敵のスーパースターと言えば、ディエゴ・マラドーナを置いて他にはいないでしょう。実際にマラドーナがブエノスアイレスのサッカーチーム(ボカ・ジュニアーズ)でプレーしていた期間は短いそうですが、かなりミーハーな気持ちで、ボカジュニアーズのスタジアムがあるボカ地区を訪ねました。するといきなり、上の写真のような、強烈なマラドーナ人形?を発見しました。ワールドカップでの活躍の後、数々の醜聞にまみれたマラドーナですが、その人気は衰える事を知らないようです。

ボカジュニアーズのスタジアムは、試合はしていなかったものの、見学ツアーがあったので、中を見てきました。ちょうど2001年に元日本代表の高原直泰がこのボカジュニアーズでプレーしていたのですが、僕が訪れる直前、奇しくも何度も書いてきているアルゼンチンの経済危機の影響とペソの暴落を受けてチームの財政状況が混乱し、あっという間に契約破棄になってしまいました。しかし、ボカ地区では僕が日本人と分かると「オー、タカハラ!」とかなんとか言って親しげに声をかけてくるおじさんに何人も遭遇したので、短期間とはいえそれなりにインパクトを残したのだと思います。

 

 経済危機の真っただ中にあったブエノスアイレスの中でも、とくに治安の悪い地域として知られているボカ地区でしたが、陽の高いうちはそれほど怖い目にも遭わずに、無事滞在先のゲストハウスまで帰ってくることができました。しかし、帰ってくると緊張が解けたからか、疲れがどっと出てしばらく寝込んでしまう事になりました。

第101回「納豆食べたい」ブエノスアイレス(アルゼンチン④)

 日本を出国して4ヶ月が経過していました。時々日本食レストランに入ったりして、和食(のようなもの)を食べたりはしていましたが、日本でよく食べていた好物のいくつかは食べられませんでした。その代表格が納豆です。アジアや欧米では、最近比較的目にするようになってきているそうですが、当時の中南米では、さすがに話題にすら上りませんでした。その納豆が、なんとブエノスアイレスでは食べられるという話を聞いて、ちょっと小躍りしました。なんでも、日本で製造された納豆を冷凍して輸入し、アルゼンチン在住の日本人の商社マンなどに販売しているそうなのです。

 なぜか滞在先のゲストハウスのオーナーが、ゲストハウス経営は副業で、実は本業が日本人向けの仕出し弁当などを売る仕事をしているそうで、「依頼すれば注文できるよ」ということで、あっさり目の前に馴染みの容器に入った、茶色い豆の塊が置かれました。

 まさか南米アルゼンチンで納豆とご対面するとは夢にも思っていなかったので若干の違和感はありましたが、とりあえず食べてみる事にします。その頃にはすっかり慣れた鍋での炊飯でご飯を炊き、納豆の上に貴重な日本産の醤油をかけ、食べてみます。

 

「・・・・」

 

「うおーーー、なんじゃこりゃーーーー」

 

味覚の記憶を揺さぶる、脳にすり込まれた懐かしいにおいと味。

ああ、納豆ってこんなに美味しかったのか。いや、そもそもこんな味だったんやなぁ、と再認識しました。古くからの友人と数十年来の再開を果たした時のような(そんな経験はまだありませんが)懐かしさを呼び起こす感覚です。そうだった、そうだった。こんな粘り気とこんな旨みと、こんな臭さやったわ、という身もふたもない感想。

しかし考えてみたら、たった100日くらい納豆を食べなかっただけです。あまり納豆が好きじゃない方は、日本で暮らしていてももっと食べない間隔があくのではないでしょうか。これは単に4ヶ月食べなかったから、というよりは、日本的なものから隔絶された4ヶ月だったからこそ感じた懐かしさなのでしょう。とにかくアルゼンチンで食べた納豆は、忘れられない記憶として強烈に脳裏に焼き付いています。

第102回「とりあえず最終回」(アルゼンチン→帰国)

ヨーロッパで一番印象に残っているスロバキアのスピシュ城。

 アルゼンチンのブエノスアイレスで沈没すること1ヶ月。その間にウルグアイへの日帰り旅行もしました。外国旅行に日帰りで行けるってすごいですね。地理感覚が、島国の日本とは全く違う。当然隣国とのいざこざがあった時はもめ事も多くなります。でも、南米は基本的に大陸全体で一体感があった気がします。先住民が多い国(ボリビア)、白人移民が多い国(アルゼンチン)、混血が進んで人種がまじりあっている国(ブラジル)など色んな事情がそれぞれの国にあるけれど、それほど同じ大陸間で他国の悪口を聞かなかった。あるいは、僕の耳には入ってこなかっただけかもしれませんが…。

 このあと、アルゼンチンとブラジルの国境でイグアスの滝という超巨大瀑布を見ておしっこをちびりそうになったり、パラグアイで地図に載っていない移民の集落を通り抜けたり、サンパウロの東洋人街で日本食を食べまくったり、ブラジルで一番陽気な街と言われるサルバドールで現役のヒッピーに会いに行ったり、まあ、ここで書きたいようなネタ満載で旅が続いたのですが、残念ながらこの旅行記を書く物理的な時間が無くなってしまいました。ですので、とりあえず南米を出てからの旅の軌跡を少したどってみましょう。

 

 ポルトガル航空で大西洋を越え、初のヨーロッパへ足を踏み入れ、ユーラシア大陸最西端のロカ岬へ行き、「ここからユーラシアの東の果ての日本まで帰るぞー」と叫んでみました(笑)。そしてヨーロッパを周遊するつもりが、リスボンのユースホステルで出会ったモロッコ人にそそのかされて(?)、急遽ジブラルタル海峡を渡ってアフリカ大陸へ。フェズの迷路で詐欺に遭ってモロッコ人の男2人に追いかけられたりもしました。目の前をベールや民族衣装を身にまとったモロッコの人々が行きかい、生きたニワトリが飛び出してきたりミントティーの香りが漂う旧市街の迷路を走って逃げていると、まるで自分がインディージョーンズの映画の登場人物になった気がしました。

 モロッコからスペインに戻ってバルセロナでガウディの建築物をいくつも見て回り、イタリアのフィレンツェではポルトガル人の留学生たちと一緒に普通の観光を楽しみました。そしてハンガリーへ。東欧のほの暗い雰囲気を楽しんでいると、出発の時に成田空港まで見送りに来てくれた大学の友人のHが、「卒業旅行でパリに行く。フランス来られる?」という無茶振りで急遽長距離バスに揺られてオーストリア、ドイツを横断して花の都パリへ。久しぶりの再会にも友人Hは「お前誰やねんっていうくらい髪も長いし、黒い」と長髪と日焼けしすぎた肌をいじられました。その後、オランダ、チェコを経て再びハンガリーへ戻り、今度こそ東欧を周遊しようと、スロバキアとポーランドをゆっくり旅行しました。スロバキアとポーランドはヨーロッパでも特に印象に残っている国々です。自然が美しく、人々は素朴で、そして簡単には割り切れない複雑な歴史を抱えている国。スロバキアはスピシュスケーポドゥラディエという舌を噛みそうな名前の村のはずれにあるヨーロッパ最大級の廃墟の城「スピシュ城」に感動しました。あまり有名ではないですが、僕が見たヨーロッパの遺跡などの中で最もすごかった。ただ、あまりにも田舎の村だったため、食堂が一軒もなく、宿の水道をコップに入れて電熱器でぬるま湯にして、そのぬるま湯でバックパックに入っていたインスタントラーメンをふやかして食べた(とてもまずかった)という悲しい思い出もセットでついてきましたが。

 ポーランドは、なによりもまずアウシュビッツ(ポーランドではオフィシエンチムと呼ばれています)が強烈な印象として残っています。アウシュビッツで起きたことを人類が経験してもなお、現代でも戦争は無くならない。これってチェルノブイリや福島の事故の後でも原発をやめられないという現状と全く同じ構造なんじゃないでしょうか。とにかく、アウシュビッツを見た後でも戦争を肯定できる人がいるなら、その人はきっと心が石でできているに違いない。

 その後、さらにヨーロッパをグルグル周遊してハンガリーで年越しをして、トルコを経由して一気にタイのバンコクまで飛行機で飛びました。本当はパキスタンやインド、バングラデッシュも行ってみたかったのですが、南米やヨーロッパでのんびりし過ぎたため、完全にタイムオーバー。帰国の期限が迫っていました。

 日本を出たのが3月の終わり、タイのバンコクに1月の終わりごろに来ていたのですが、すでに日本では次の年の就職活動が始まっていました。カンボジアのアンコールワットだけ観光して、後ろ髪をひかれる思いで日本に帰りました。帰ってきてしまいました。あーあ。

 成田空港には千葉県に住む大学の友だちSが迎えに来てくれて、そのまま船橋市の彼の家に宿泊させてもらいました。Sのお母さんが巻き寿司を作ってくれました。その中のひとつ、梅入りの細巻きを食べた時、梅干しの名状しがたいその味、日本としか言いようのない味が口に広がり、ああ、俺は日本に帰って来たんやな、と思い知りました。一番美味しかった食べ物。旅の間に食べたどんな外国の珍しい食べ物でもなく、一年間日本を留守にしたという体験を経て最初に食べた梅の細巻きが一番印象に残っています。

 

 ヨーロッパ以降の出来事を同じように書いていくと、あと100回分くらい連載しないと旅が終わりません。いつか機会があれば書きたいと思いますが、とりあえず今回で最終回。訪問国30か国、旅行期間315日、訪れた都市76、費用は全部で100万円強でした。

 長々とお付き合いいただき、本当にありがとうございました。(おしまい)

株式会社 安全農産供給センター 〒611-0041 京都府宇治市槇島町目川118-7
 TEL:0774-22-4634 FAX:0774-24-9512 E-mail : nousan@peace.ocn.ne.jp