赤池の部屋「世界一周・思い出し紀行」バックナンバー 北米編

 

第1話「出国前夜」東京(日本)

 出発は2002年3月26日。その出発前から決まっていたことは次の2つ

の事だけでした。

 ①最初に訪れるのはアメリカ西海岸のロサンゼルスであること。

 ②4月中にグアテマラという国に入り、「アタバル」という名前の

   スペイン語学校に留学すること。

 この2つです。最初の渡航地をアメリカの西海岸にしたのは、純粋に

航空券が安かったというだけの理由です(たしか2万円ぐらいでした)。

  そこから南は、とりあえず行けるところまでバスと船で行けるところ

まで行こうと考えていました。グアテマラに入国したら、アンティグア

という町にあるスペイン語学校でスペイン語のお勉強です。というのも、中南米はどの国も英語がほとんど通じない、と聞いていたからです。(例外はカリブ海沿岸の国と高級ホテル。)片言でもスペイン語が話せることは、治安に不安の残る当時の中南米旅行では必須だったのです。

 加えて、大学を休学する際に休学理由を提出しないといけないのですが、さすがに堂々と「海外放浪のため」とは書けず、「語学留学」という事にして、お茶を濁そうと考えたのですが、その入学証明書を発行してくれたのが上記の「アタバル」というスペイン語学校だったのです。

 慌ただしく出発の準備をしている僕を横目で見ながら、友人たちは慣れないスーツを着て就職活動をしています。出発を前に浮かれていた僕は「なんか一人だけめいっぱい楽しんでいるみたいで、友人たちに悪いなぁ」と愚かにも考えたりしていました。まさか1年後に自分も同じように世迷いごとを言いながらネクタイを結んで、暗い顔をして集団面接の会場に座っているなどとは、夢にも思わずに・・・。

 まあそれはともかく、出国です。旅行期間は約300日。旅の予算は1万ドル(当時のレートで約130万円)。成田空港まで、就活スーツを着たままの友人たち(と留年が決定して就活していない友人)が見送りに来てくれました。さて、一体どんなハプニングが待ち受けているのでしょうか?(つづく)

 

 

右の赤いものが一般のバックパッカーのリュックで、左が赤池のリュックです。かなり小さい荷物で難儀しました(笑)。

第2回「波乱の幕開け」ロサンゼルス空港(アメリカ合衆国)

 マレーシア航空の旅客機がロサンゼルス国際空港に到着したのは、

昼の11時。日付変更線を越え、太平洋をひとまたぎする間に3回同じ

映画(※1)を見て、2回同じような機内食を食べました。機内食は

いつ食べても同じ感想を抱いてしまいます。

「たいして美味しい物じゃない。でもこれから旅が始まるんだと考え

ると許せてしまう、そんな味」。

 

 特にどうするか決めていなかったので、とりあえずロサンゼルスの

市内に向おうと思って「シティーバスセンター」と書かれたバスに飛

び乗りました。それらしいバスに適当に乗ったらロサンゼルスに行け

るだろうと思って…。ハリウッドにもビバリーヒルズにもあまり興味は無かったのですが、リトルトーキョーと呼ばれる東洋人街は一度見ておきたいと思っていたのです。さあいざ、世界有数のセレブたちが闊歩する街、LAへ。

 ところが、バスはしばらく走ると、予想に反して意外と地味な町へと滑り込んで行きました。人口1600万人を擁する世界有数のメガシティーであるロサンゼルスがこんなにさびしい郊外風の町なわけがないぞ。だいたい、高いビルでも四階建てくらいしかないじゃないか…。

 ひとまずバスを降りて、ここはどこかと近くにいたおじさんに聞いてみると、ロングビーチ(※2)だ、との答え。ロングビーチ?やっぱりロサンゼルスじゃないのか…。しかも結構ロサンゼルスの中心から遠く離れてしまったようです。仕方がないので、当初の予定を変更して、このまま一気にメキシコとの国境の町、サンディエゴへ向うことに決めました。そもそもはじめて訪れた国の空港で調べもせずに適当にバスに飛び乗るなんて、どうかしているとしか言いようがありません。気ままな旅はいいけど、こんなに適当な事では、我が事ながら先が思いやられます。

 というわけで、アメリカに到着早々、まったく予定していなかったロングビーチの町に降り立つことになってしまいました。だいたい、行き当たりばったりな上に、ガイドブックすら持たずに旅行するなんて、やっぱり無謀なのでしょうか?そして今夜の宿は見つかるのでしょうか…。(つづく)

 

※1同じ映画を3回・・・「ウォーターボーイズ」という男子学生がシンクロナイズドスイミングに挑戦する、という奇抜な青春映画です。

※2ロングビーチ・・・後に調べたところでは、ロングビーチはロサンゼルスの南30kmに位置する郊外の街で、名前のとおり太平洋のビーチに面しています。サーフィンなどの若者文化も非常に盛んで、僕が当時受けたような印象(さびしい郊外風の町)とはずいぶん違う、カリフォルニア州でも5番目に大きい都市です。

 

 ロサンゼルス国際空港から一歩足を踏み出して最初に目に飛び込んで来た景色がこれです。空港のバスターミナルの奥で、ウォルトディズニーの広告が恭しく旅人を出迎えてくれています。

 

第3回「路頭にて」ロングビーチ~サンディエゴ(アメリカ合衆国)

 ロングビーチという、ロサンゼルス南30kmの郊外の町で路頭に迷いかけ、

予定を変更して、なんとかサンディエゴまで一気に向う事にしました。サンデ

ィエゴまでとなるとかなり距離があるので、グレイハウンド社の長距離バスを

利用して移動する、というのがその当時の僕に浮かんだ唯一の解決策でした。

昔読んだ本によると、グレイハウンドの長距離バスはアメリカの町という町を

結んでいて、どんな町にも必ずターミナルがあるらしいです。「どんな町にも」

という部分の真偽はともかく、バスターミナルを探すしかなくなりました。

しかしこれが、あてもなく探すとなると一向に見つからないものでして…。しかも捜し歩くうちにだんだんと陽が傾きはじめました。

 

  いつの間にか僕は自問していました。おいおい、一体どうなってるんだ。いつもだったら旅で問題が発生しても、知らず知らずのうちに解決してるのに…。そしてはじめて気が付きました。そうだ、ここは東南アジアじゃなかったんだ、と。

  今まで旅行してきた東南アジアの国々では、空港から適当にバスに乗っても、ガイドブックを持たずに旅行をしてもまったく問題がありませんでした。なにかトラブルが起きそうになっても、いつの間にか周りの人たちが助けてくれたり、泊まるところを探してくれたり…。そんな旅に慣れていたので、アメリカでもなんとかなるかな、などと軽く考えていたのですが、これが見事に全然なんともなりませんでした。

 

  途中何人かの通行人に道を尋ねてみたのですが、そもそも英語がうまく通じません。時差ぼけと睡眠不足で意識が朦朧としてきたので、とりあえず通りがかった市内巡回のトロリーバスにこれまた適当に乗りました。そしてしばらく、ぼーっと車窓を眺めていると、突然、グレイハウンドの犬のマークのある建物が目に飛び込んできました。やれやれ。

 

  やっとの思いでバスターミナルにたどり着いてサンディエゴ行きのバスを待ったのですが、来るはずのバスが全然やってきません。すでに太陽は西の空へ沈んでいき、薄明の中、バスを待つよりこの辺りでモーテルでも探したほうがいいんじゃないかな?と考え始めた頃、ようやくバスがやってきました。今度はちゃんと行き先を確認して(あたりまえですが)、ようやくホッとして座席に身を投げ出しました。

 暗闇の中、バスは片側6車線の分厚い高速道路をサンディエゴに向けてひたすら南下して行きます。旅の初日からこんな有り様で本当に大丈夫だろうかと、えらく自分に自信が無くなったのをよく覚えています(涙)(つづく)

  このわんこのロゴマークをさがして暮れかかるロングビーチの町を歩き回ることに…。そもそも地図も無しに外国の知らない町を歩くなんて無茶な話でした。

第4 回「パンケーキの味」アメリカ合衆国 サンディエゴ)

 長距離バスは夜のサンディエゴの街に無事到着しました。ほっ。

そしてすでに暗くなった街を歩き回り、迷いながらもなんとか街中のユー

スホステルにたどり着きました。サンディエゴの町の地図だけは、念の為

にと思って日本でコピーしておいたのです。

 1泊18ドルのドミトリー(相部屋)に荷を置いて、ようやく長い長い旅の

1日目が終わりました。日本で朝起きてからすでに30時時間以上が経過し

ていました。

 当時の日記には、

「…シャワー浴びて寝る。ただの通過点だからか、気持ちは割りと淡白であ

る。」などという実にクールな表現で旅の記念すべき一日目を締めくくてい

ます。日記なのに、一体誰に対してカッコをつけてるんですかね(笑)

 

 旅の2日目は朝6時半に起きました。朝食の用意がまだだったので、港のほうまで散歩に行ってみました。途中でジョギングしているたくさんの健全なるサンディエゴ市民とすれ違いました。

 1時間ほどしてユースホステルに帰り、宿泊費に込みの朝食を食べました。

パンケーキが2枚、オレンジが2個、そして薄いコーヒー(まさしくアメリカ

ンコーヒー!)が付いていました。パンケーキは小麦の味もバターの味もし

なくて、ただ塩の味がしました。その塩の味のするパンケーキを噛みしめな

がら「さあ、さっさとメキシコへと国境を越えてしまおう。そして美味しい

と噂のタコスを食べまくろう」と強く心に誓いました。

有名なサンディエゴ動物園は、あまりに入園料が高くてあきらめました(涙)

 

 さて、ここまで旅の、特に一日目をやけに詳しく書いてきました。間違っ

たバスに乗って想定外の場所にたどり着くことなんか、バックパック旅行を

していれば嫌というほど経験する事だし、別に珍しい出来事が何か起こったわけでもありません。

 ただ、自分でも全く未経験の、1年近くにも及ぶ長い旅の初日がこうも思い通りではない方向に進んでしまった事が、図らずもこれから始まる旅を暗示していたんじゃないかと、今となっては思うのでちょっと詳しく書いてみました。

 当時の日記にも書いていたように、あくまでもアメリカは飛行機代を安く上げるために立ち寄った通過点なので、アメリカ編はほんのプロローグです。決してアメリカが好きとか嫌いとかいうことではなく、当時の僕はメキシコ以南のラテンアメリカ文化に非常に強い憧れを抱いていたのです。そういう訳で、次のメキシコ編からがこの旅行記の本編と言えます。ラテンアメリカに足を踏み入れた瞬間にガラリと世界が表情を変えた、あの感覚をうまく伝えられるといいのですが・・・。(つづく)

ちょっと見にくくて恐縮ですが、サンディエゴの夜の街を馬車が闊歩していました。さすがカウボーイの国?

早朝の散歩中に撮影したサンディエゴの海岸の風景です。小さな波止場でしょうか。

 

第5回「アメリカ・メキシコ国境線」ティファナ(メキシコ)

 サンディエゴからメキシコ側の国境の町ティファナまではトロリーバスに乗ってふらり

と行く事ができます。なんとアメリカ側には出国のイミグレーションすらありません。

一方通行の鉄の回転扉をくぐり抜けると、何のチェックもなくメキシコに入国してしまって

いました。どういうことかというと、わざわざアメリカからメキシコに密入国する人間など

いないという事です。逆にメキシコからアメリカへは密入国者が後を絶ちません。だから、

アメリカ入国の審査をするイミグレーションは、週末になると大混雑するそうです。

 たかが隣の国に行くだけです。なのにどうしてここまで差があるのでしょうか。もちろん

経済格差がその主たる理由であるのは分かりますが、それでも入国審査官が目を皿のように

してメキシコ人のアメリカ入国をチェックしている横を、普段着のアメリカ人がほとんどノ

ーチェックで自分の国へ帰って行く光景はちょっと異様です。

 

アメリカとメキシコ(そしてカナダ)は、20年前からNAFTA(ナフタ)と呼ばれる自由貿易協定を結んでいます。これは実は今、日本がアメリカ(及び諸外国)と結ぼうとしている例のTPPによく似た部分がある協定なのです。メキシコの主食であるトウモロコシの小規模農家が大きな損害を受けただけでなく、NAFTA締結後にアメリカ産のトウモロコシが急増した事で、メキシコの固有種のトウモロコシにアメリカの遺伝子組み換えトウモロコシが交配してしまうという大事件まで起きています。

 

 さて、旅の話に戻りましょう。僕ももちろんその鉄の回転扉を押してこの国境をメキシコ側へ抜けました。そのまま町へ繰り出すと、ばっちり密入国になってしまいます。ちゃんと自分で事務所を探し、ツーリストカードを提出して、パスポートに入国スタンプももらわないと駄目なのです。ぼーっとしていたら後々大変な事になるので、けっこう緊張した越境でした。

 さて、メキシコ側に入国して気になった事があります。それは、地理的にはほとんど移動してないのに、メキシコに入って空気感が一変したということです。具体例を挙げると、入国手続きのためにメキシコ側の事務所に入ったとき、蚊がぶわーっと室内を飛び回っていたのです。アメリカで過ごした数日の間、存在を感じる事は一度もなかったのに、メキシコ側で突然現れた蚊の集団。国境の不思議と言わざるを得ません。

 実はその蚊の存在を確認して、ようやく旅が始まるなぁとワクワクしていました。この瞬間に僕はラテンアメリカ圏へと足を踏み入れた事になるのです。(つづく)

 

※NAFTA(北米自由貿易協定)・・・1994年に締結された、北米3カ国による貿易協定。自由な貿易圏の形成を目的にしており、メキシコでは交渉段階で特に農業分野での影響が懸念された点は、現在のTPPにおける日本の立場に酷似しています。NAFTA締結後のメキシコで起きたこと(本文で書いた事や、食料自給率100%だったメキシコが締結後に67%まで自給率が下がった事など)を理由に日本のTPP参加に反対する意見もあります。

国境の町ティファナ。ほかのメキシコの町にはない、妙によそよそしい雰囲気がありました。ほかのメキシコの町はもっと人懐っこいのに。

第6回「エンセナーダの退屈」 ティファナ~エンセナーダ(メキシコ)

 「セルカ、セルカ!」

国境の町ティファナのABC社というバスのチケット売り場の兄ちゃんは、そう諭すように言って僕にしわくちゃのチケットを渡してくれました。やたらと強調するので、僕は乗り継ぎのために降りる町がセルカという名前なのかと思ってしまいました。言われた通りのバスに乗ると、あっという間に終点に着いてしまいました。ここはどこか近くの人にたずねると「エンセナーダ」という町らしいのです。じゃああの「セルカ、セルカ」というのは一体なんだったんだろう、町の名前じゃないかな?と思ってスペイン語の辞書を引いてみました。スペイン語は発音がほぼローマ字読みなので、耳にした言葉を辞書で引くのがものすごく簡単なのです。

 

Cerca(セルカ)・・・近い

 

 あ、そっか。「降りる町はすぐ近くだぞ」って教えてくれていたんですね(笑)。こんな風にゆっくりゆっくり牛の歩みでスペイン語を覚えていきました。

 

 超初歩のスペイン語での会話で印象に残っている出来事がもうひとつ、このエンセナーダという町でありました。

 そのとき僕はカリフォルニア半島のほぼ南端、ラパスという町まで約1200キロを一気に南下しようとしていました。そのエンセナーダという町からは、一気にラパス行きのバスが出るようなのですが、バスの出発時間は午後11時。今は午後4時半です。何の変哲もない小さな町で、しかも重い荷物を抱えているので歩き回ったりできません。6時間半、ひたすら小さなバスターミナルでうずくまっていました。でもあまりに退屈なので、すぐ近くの食堂にお腹もすいてないのに何回も食べに行ってしまいました。タコスを食べたり、ホットドッグを食べたりしながら、なんとか退屈と闘っていたのですが、隣りで同じようにバスを待っていたメキシコ人のおっちゃんが、退屈しのぎをしようとしたのでしょうか、僕に話しかけてきました。

 

 

 Hola,buenas tardes.Como te llamas?(やあ、こんばんは、君の名前は?)

 

 と、このあたりまでは、一番最初に習うあいさつなので聴き取れたのですが、そ

の後の質問でうっ、と詰まってしまいました。

 

 Tienes el manos?

えーと、Tienesは英語のHaveだから「持っている」。ElはTheの意味で、manoは

「手」という意味のはずだから、・・・。「あなたは手を持っていますか?」??

いやいや、そんなおかしなことを聞いてくるはずがないぞ。でもとりあえず、「Si(はい)」と答えておくと、なんかその後に男だ、女だ、みたいな単語が出てきてさっぱり意味が分からなくなってきて、結局降参しました。

 

 もっと後になってきちんとスペイン語を習ったときに、初めてこのときの質問の意味が分かりました。Elmanosは 「手」ではなくて「兄弟」と言う意味だったのです(※)。だから、「はい」と答えると、男か女か、つまり男兄弟か女兄弟か聞いてきたんですね。

 そんなことをしているうちに、午後11時になり、定刻にバスがやってきました。乗り込むと、すぐに車内が暗くなったので、瞬く間に眠りにつきました。(つづく)

 

※ちなみに、一応もう少し詳しく解説しておきますと、「手」はel mano ではなく、la manoとなり、定冠詞が女性形になります。一般的に最後の子音がoで終わる単語の冠詞は男性形になるのですが、このmanoは特殊な名詞で、oで終わるのに女性名詞なのです。

だからもしあのとき本当に「手を持っていますか」という変な質問をされていたとしたら、

Tienes la mano? という文章になっていたのでしょう。そんな質問普通はしませんが…。

もしスペイン語に興味がある方がおられたら、と思って蛇足ながら一応解説しておきました。

エンセナーダのバスターミナルでスペイン語会話に付き合ってくれたおじさん。東洋人が珍しかったのでしょうかねぇ。

第7回「バハ・カリフォルニア半島」エンセナーダ~ラパス(メキシコ)

 

   人口は日本とほぼ同じ1億1千万人ほど。しかし国土は日本の5倍もあ

る広大なメキシコでは、ちょっとしたバスの移動もなかなかハードなも

のになります。エンセナーダからラパスまで、バハカリフォルニア半島

と呼ばれている半島を一気に南下するのに、20時間のバス旅となります。

 朝6時ごろ浅い眠りから覚めて、車窓からの景色をぼんやり眺めていま

した。昇ってくる朝日で、立ち並ぶサボテンのシルエットが映し出して

いて非常に幻想的でした。人工物といえそうなものは、自分が乗ってい

るバスと道路だけ。あとはひたすらサボテンと荒野が広がっているだけ

です。

隣りの座席に座っている欧米人のおばちゃんは

「Oh! マジックフィーリン」とつぶやきながら、恍惚の面持ちでこの神秘的な車窓の光景を眺めていました。

 

前夜11時に出発したバスは数回の休憩を挟んで、日もとっぷり暮れた夜7時半に、無事カリフォルニア半島南部の港町ラパスに到着しました。

中南米でラパスと聞けば、真っ先にボリビアの(事実上の)首都であるラパスを思い浮かべる方が多いと思いますが、こちらメキシコのラパスも、カリフォルニア半島の南部の中心地にして、船でメキシコ本土へと渡る拠点にもなっている重要な町です。

ここから船に乗って、マサトランを経て首都のメキシコシティを目指し、そのままの勢いでグアテマラへ入国しようというのがそのときの僕の計画だったのですが、その計画は無残にも打ち砕かれ、ここラパスでなんと9日間も足止めを食うことになってしまったのです…(涙)。というのも、3月末から4月上旬のこの時期、ラテンアメリカ諸国では「セマナ・サンタ(聖週間)」という非常にポピュラーなカトリックの伝統行事が行われる期間とばっちり日程が重なっていたようで、多くのメキシコ人が、地元に帰ったり、また大きい町へ行事に参加しに出かけたり、と大忙しの時期だったようなのです。

そんなわけで船のチケットが取れた9日後まで、ここラパスで予定外の足止めとなったわけです。次回から、この長期にわたる足止めの際に起こった様々な出来事について少し書いてみたいと思います。メキシコの懐の深さが感じられますよ。(つづく)

朝日を浴びてシルエットにとなって写し出されるサボテンの荒野。このようなバスの車窓からの光景は、嫌でも旅人の感傷的な気分を誘います。

第8回「ラパスの日々①夕陽にたそがれる」ラパス(メキシコ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 ラパスの人口は約20万人。荒野が広がるカリフォルニア半島屈指の商業都市です。別欄の手書きのメキシコ地図を見てもらうと分かると思いますが、ラパスは半島の先端近くに位置しています。ですので、船で移動できない場合、来た道を戻るか、船を待つ以外もはやどうする事もできないのです(涙)。

けっこう大きな町なのでちょっとぶらぶら歩いたぐらいでは、なかなか町の全貌が見えてきません。しかしとりあえず9日間も目的なく過ごすわけには行かないので、町にどんなものがあるか探してみるのですが・・・。ガイドブックがないので、どんな観光名所があるのかもさっぱり分かりません。

とりあえずお腹がすいたので朝ごはんを食べに入ったカフェで、「あなたは日本人か?日本人なら折り紙の折り方を教えてほしい」と頼まれたので、どうせ暇だから、と大量のツルを折ってあげました。

 

 うろうろしているうちに日が暮れてきたので、港に行って夕陽を眺めます。うーん、旅先で見る夕陽は、なんだかんだいっても感傷的な気分になってしまいます。まだ旅は4日目。この先一体何回こんな風に夕陽が沈むのを見ることになるのでしょうか。そして、旅が長くなっても、同じように夕陽を見て感傷的な気分に浸る事ができるんでしょうか。

長期旅行者からよく聞かされた話のひとつが、

 

  旅も半年を過ぎてくると、旅の日々自体が日常になってしまって、旅に飽きてくる事がある。

 そして多少の事では感動しにくくなってくる。

 

というものです。実際に旅が半年を過ぎるとき、僕はどのように感じたのでしょうか。それはまた後ほど…。

 

お腹がすいてきたので、晩ごはんを食べられる所を探して歩く道すがら、朝に大量のツルを折ってあげたカフェの前を立ち寄ると、店の天井から糸が吊るされて僕の折ったツルがあちこちにぶら下がってるではありませんか!

「何もすることがなかったら、この港町であと8日も何をして過ごしたらいいんやろ?」

そんな風にちょっと不安を感じていたのですが、ツルがぶら下がっている光景を見てちょっと気分が明るくなりました。この町とほんの少しだけつながる事ができたように感じたのです。そして実際、このラパスでの日々は、退屈とは無縁の狂騒的な様相を帯びてくる事になるのです・・・。(つづく)

 なんだかレトロな雰囲気の残るラパスの街中。

手前に移っているフォルクスワーゲンの古いビートルが至る所で見られました。なんだかかっこいいですよね。

 ラパスの海岸で眺めた夕陽。

右下のシルエットになっているのは、もちろん僕、ではなくて、地元の子供です。

第9回「小麦粉?それともとうもろこし?ラパスの日々②」ラパス(メキシコ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

店内を見渡したりして、いろいろ推理してみた結果、タコスに使うトルティーヤの原料の穀物を選べるということなんだと判明しました。

 つまり、この店にはメニューはなくて、シンプルに小麦粉かトウモロコシのトルティーヤ、どちらかを選びなさい、という事だったのです。どちらか選んだら、軒先で焼かれていたお肉がトルティーヤにのせられて客の前に出されます。客はそれを持って店の中央に行き、10種類くらいあるトッピングや何種類かのソースの中から好きなものを選んでかけて、食べるというシステムなのです。

 これが衝撃的においしいものでした。メキシコのタコスはおいしいという評判はよく聞きますが、正直ここまで豊かで複雑な味わいだとは想像していませんでした。トマトやアボカドをベースにしたソースに、香辛料やレモンのアクセント、そして炭火で焼いた牛肉のサイコロステーキのジューシーな旨み、と味の多重構造がたまりません。そしてまた、トッピングの野菜がおいしいのなんのって。ざく切りの生の赤玉ねぎ、サイコロ状のアボカドやトマト、炭火で焼かれた巨大なピーマン。欲張って野菜をのせ過ぎて、下が全く見えなくなる事もあり、重みでよくトルティーヤが破れたりしました。

 

実はその後、ラパスを去るまでの8日間ほとんど毎日ここで夕食を食べました。最後にはすっかり常連客のような「どや顔」をして店に入っていく自分を思い出すとちょっと恥ずかしかったりします。

 

 さて、肝心のトルティーヤの選択について。何日も通ったので小麦粉もトウモロコシも食べてみました。最初に食べたときは、小麦粉のトルティーヤのほうがキメの細かいなめらかな生地が美味しく感じられたのですが、日を追うごとにトウモロコシの味わい深さに軍配が上がるようになってきました。そもそも小麦粉のトルティーヤってただの分厚いクレープなわけです。食べ慣れている分、最初はそちらがおいしく感じられたのでしょう。しかし中南米の主食はトウモロコシです。そしてトルティーヤというのは本来トウモロコシで作られるものです。おそらく、この辺りの地域に多い米国人の味覚に合わせてこういう庶民的な店でも小麦粉のトルティーヤを置いているのだろうと推測します。メキシコシティーでは(あんまり外食しなかったけれど)一度も小麦粉とトウモロコシの選択を迫られなかったからです。

 トウモロコシのトルティーヤの味は、もっさりしていてなめらかさがない。その代わり、噛みしめているとどんどん穀物の豊かな風味が口に広がってきます。そして、だんだんこの味でないと物足りなくなってきてしまうのです。恐るべし、トウモロコシの魔力。(つづく)

レストランの軒先の様子です。お肉を焼いているので、美味しそうな匂いがその店のある通りを流れ続けていました。その匂いに嫌でも吸い寄せられてしまいます。でもちょっと怖そうなお兄ちゃんが立っていたので一瞬ひるみました。

とにかく、退屈するにしても、おいしいご飯だけは確保しなくてはいけません。うろうろしていて、港から一本道を入ったところでタコス屋さんを見つけました。

軒先で、炭火で牛肉をジュージュー焼いていて、実に食欲をそそります。店内でメニューでも見て何を注文するか決めたらいいのかな、と思っていたのですが、ウェイターの兄ちゃんはメニューも見せず、

 

Harina o maiz? (アリーナ オ マイス?)

と一言聞くだけです。意味が分からないので、慌てて辞書を引くと、

 

「小麦粉?それとも、とうもろこし?」

という意味でした。

 

「???」  いやいや、いきなり穀物の名前を言われても困りますがな…。

第10回「変なアメリカ人、カート~ラパスの日々③」ラパス(メキシコ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「お前はアジア人だから何がうまいか分かるだろう」、ということで中華料理をおごってもらったり、カートの友人のメキシコ人たちが大挙して宿に押しかけてきて、メキシコ流のテキーラの飲み方を教えてもらったり…。ちなみにテキーラは40度ぐらいあるキツイメキシコの蒸留酒で、ショットグラスのふちに塩をつけて、その塩味を舌に感じながら一気飲みする、というのが一般的な飲み方です。これが一般的っていうのも、過激というか文化の違いというか…。

 

そんなこんなでカートにはラパスを出るまでなんやかんやと遊んでもらいました。おかげで何の予定もなく退屈に過ごすはずだったラパスでの9日間はあっという間に過ぎていきました。そして、いよいよお別れ、というとき、水色のよれよれのTシャツを餞別にくれました。そのTシャツは10年以上たった今でも、夏になると着ています。ラパスでの日々と、カートという一人の風変わりなアメリカ人を思い出しながら…。(つづく)

カート。めっちゃ怖そうに見えますが、おどけているだけです。本当はとても心優しい男でした。いろいろ事情を抱えているようで、アメリカ本国には帰らないそうで…。人生色々ですね。

ゲストハウスの屋上で獲ってきた魚を豪快に調理している所です。僕も食べさせてもらいましたが、鯛みたいな白身魚でした。

ラパスでは、ポサダ・サンミゲルという名前のゲストハウスに泊まっていました。一応事前に調べたところによると、この町で一番リーズナブルな宿泊施設の一つだったので、迷うことなくそこに泊まったのですが、ここにちょっと風変わりな宿泊客がいました。

 前述のタコス屋さんで晩ごはんを食べて、夜中に宿に帰って来た時の事。ビールを飲んでいたのでちょっと酔い覚ましに、と思って中庭のベンチに腰掛けてぼーっとしていると、大柄な白人男性に声をかけられました。

 彼は「俺の名前はクルルだ」と名乗ったのですが、クルルとはまた変な名前だなぁと思って聞きなおすと、「クルルだ、クルル」と繰り返します。やっぱり変なので、スペルを紙に書いてもらうと

KURTとのこと。なーんだ、「カートさん」なんですね。本当に英語の発音って日本人にはムズカシイ・・・。こんな簡単な名前でさえ、聞き取るのに一苦労です。

アメリカ人のカートは音楽が大好きだということもあって、その夜の立ち話だけで驚くほどあっさりと打ち解けることができました。そしてあろうことか、次の日からカートは朝になると僕の部屋をノックして起こしにくるようになりました。

ヒッピー崩れのような風貌も、ほとんど上半身裸で過ごすワイルドさも、年齢不詳(30代~40代?)なところも、なぜか全く気になりません。色々と話をするうちに、故郷を捨ててメキシコに骨を埋める気でいる事や、大病を患っていることなど、結構ヘビーな話題も飛び出してきましたが、本人はいたって明るく振舞っています。うまく言葉では言い表せないのですが、とにかく風変わりな男だったのです。

第11回「ラパス最後の日・前編~ラパスの日々④」ラパス(メキシコ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 う話が突然決まってしまいました。適当に8ビートを叩くだけならそんなに難しくは無いのですが、一体どんな曲をやる事になるのか想像もつかないまま、まな板の上の鯉のような気持ちでライブ会場であるパブへ向いました。

 予想に反して屋上のテラスでの演奏。まるでビートルズのアップル社の屋上ライブの気分です。しかも結構お客さんが入っているじゃないですか…。本番直前に打ち合わせがあって、今日はQUEENのWe are the Championをお前に叩いてもらうから、と言い渡されました。有名な曲なのでなんとなくは知っていますが、結構リズム複雑じゃなかったっけ?

 しかしここまできたら引き返せません。そうこうしているうちに本番が始まりました。僕が出て行くまではまだしばらく時間があるみたいなので(何曲目に出ていくのかも聞かされてなかったのです)、そのバンドの演奏を聴いていたのですが、これがまたプロとして各地を回っているだけあって、タイトないい演奏をするんですね、当たり前だけど。

 曲は誰もがどこかで聴いたことのあるような英米のヒット曲や、スペイン語圏でのみヒットしたであろうラテン風の曲などがどんどん演奏されていき、いよいよリーダーとおぼしき赤いバンダナを巻いたボーカルの兄ちゃんが僕の方に視線を送ってきました。どうやら出番が来たようです・・・(長くなってしまったので、次週につづきます。)

 

 

仲良くなったメキシコのロックバンドの面々。いかにもメキシコ人らしいノリノリのステージだったので、聴いているだけならとても楽しめたと思うのですが…。

カートは、ラパスの町に半分住み着いているようなアメリカ人でした。かなり長期間に渡って滞在しているようで、メキシコ人の知り合いが彼の部屋を何人も訪ねてきました。そのなかに、町から町へと転々と渡り歩きながら、いろんなパブなどで演奏しているプロのバンドマンの一行がいました。ドラムスを担当しているミゲルという名の、ヒゲを蓄えた小柄なメキシコ人は特にカートと仲が良いらしく、文字通り毎日遊びに来ていました。だから自然と僕もそのヒゲのミゲルと話すようになりました。

 

そしてラパス滞在最終日。次の日の朝にいよいよ船で出発という日にその出来事は起こりました。ほんの成り行きだったと思うのですが、「僕も大学のサークルではドラムスを叩いてるんだよ」、という話をミゲルにぽろっと話したところ、じゃあ、今夜のパブでのライブでお前一曲叩いてみるか、とい

第12回「ラパス最後の日・後編~ラパスの日々⑤」ラパス(メキシコ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 今回僕が演奏に参加したQUEENのWe are the Champion は、大きなスポーツイベントなどのフィナーレなどでよく演奏される、やたらとドラマチックな曲です。どんな内容の歌かと言うと・・・無実の罪での刑期を終えて出所した男が、「過ちを犯したわけじゃない、貧しくて思い通りにならない人生だけれど、貧しくったって俺たちは王者(チャンピオン)なんだ」と、高らかに宣言する、という歌詞です。もっと単純な内容かと思っていたけれど、社会派の歌ですよねぇ。後から知ったことなので、この旅行当時は全然知りませんでしたが…。

 本職のドラマーのミゲルが撮ってくれた写真のおかげで、僕がとりあえずメキシコデビューを果たした証拠写真だけは残せました(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜更けまで楽しく過ごして、翌朝は案の定寝坊して、ぎりぎり間に合って船に駆け込みました。そんなわけで、全く当初の予定になかったラパスという町への滞在は、今でも忘れられない思い出になりました。どうしてメキシコ人ってこんなに懐に飛び込みやすいんでしょうか。2秒ぐらいで意気投合してしまうのですが…。(つづく)

赤いバンダナをまいたノリノリのボーカルの兄ちゃんに派手な紹介をされる赤池。「えーい、乗りかかった船だ~」という(なかば捨て鉢な)気分で演奏しました。

(先週からのつづきです)

 赤いバンダナを巻いた、リーダーとおぼしきボーカルの兄ちゃんが僕に視線を送ってきて、いよいよ自分の出番が来た事を悟りました。楽器の近くまで行くと、それまで涼しい顔をしてドラムスを叩いていたヒゲのミゲルが僕にドラムスティックを手渡し、僕のカメラを渡すように言ってきました。お前の勇姿を撮ってやる、ということなのでしょうが、勇姿となるのか、それとも醜態となるのか、それはメキシコの神様だけが知っています。

 さて、演奏のほうですが、自己評価ということでいくと、全然曲の構造を理解していなかったので、必死で追いかけていただけ、ということになります。音楽に大きな穴を開けなかっただけ良かったと思います。リハーサルも無しだったので、あれで許してください、お客さんたち…。

 ぐったり疲れて、夜中にそのパブから帰っていると、帰り道のとある家から音楽が聴こえてきました。もう夜の10時を回っていたと思います。明日は早朝のバスで船着場に行かなければなりません。なのに、足がその音楽の鳴っているほうへと吸い寄せられていきました。近づいてみると、ベランダでギターをかかえたおっちゃんたちが楽しそうに歌っていました。のぞき込んだ瞬間に、「お前もこっちへ来い」と言われ、なぜかそのベランダで一緒に過ごす事になってしまいました。繰り返しますが、もう真夜中で、しかも明日は6時には起きて船着場に・・・。

「何、ギター弾くのか、じゃあお前もギター弾いてみろ」とおっちゃんに言われ、そうこうしているうちに、やがてお酒も持ち込まれて・・・

そんな感じでラパス最後の夜は過ぎていきました。

深夜にゲストハウスに帰る途中で偶然出会ったミュージシャンのおじさん。いつの間にか意気投合していました。こんなこともメキシコならではだと思います。

第13回「メキシコ・ビール考」ラパス(メキシコ)

 メキシコのビールと言えば日本ではなんと言っても『コロナCorona』が有名です。一般的なスーパーなどでも販売されていますので、飲んだことは無いまでも、見かけたことぐらいはあるという方は結構おられるのではないでしょうか。もちろん輸入ビールが多く売られている量販店に行けば、それ以外の種類も販売されていますが、知名度では『コロナ』がダントツです。ちなみに世界159か国で販売されているので、世界中の人が「メキシコビール=コロナ」と考えているしても不思議ではありません。

 ところが、メキシコ本国へ行くとちょっと事情が変わります。世界中でダントツの知名度を誇る『コロナ』は、特にメキシコ国内でダントツの売り上げというわけではないのです。まずメキシコで一番人気があるのは『テカーテTecate』という名前の赤いラベルのビールです。これはどこでも見かけましたが、飲んでみると普通の味です(笑)。ちょっと軽めで飲みやすいぐらいのこれと言って特徴のない味でした。

 次に『モデロModero』。これはメキシコ2大ビールメーカーの一つModero社が作るビールです。この会社は『コロナ』も製造しています。このビールも軽い飲み口が人気で、コロナビールより頻繁に目にしたくらいメジャービールです。日本でもよく売っているのを見かけます。味は他の銘柄とさほど変わらないというのが個人的な印象です。

 そして僕が個人的に一番お気に入りだったのが『ソルSol』です。ソルとは「太陽」という意味で、太陽のビールというコンセプトとメキシコという国のイメージが本当にピッタリはまって、実にメキシコらしいビールだなぁと勝手に気に入って、毎晩に飲んでいました(笑)。ですが味の方はというと、これも軽い飲み口が特徴で、味が他と大きく違うわけではありません…。しかし、暑い南カリフォルニアではその軽い飲み口のビールがやたらと美味しく感じられるのもまた事実です。全体的にアルコール度数も3~4%と低めなので、安心して?飲めるのも嬉しいですね。

 

 以上4種類のビールを紹介しましたが、現在メキシコには20種類の銘柄があるそうで、しかもビール生産量も世界第6位で、日本(第7位)以上のビール大国なのです。飲み方は、ライムをビンに絞りながら入れるのが一般的だと言われています。実際、メキシコでビールを注文すると必ずと言っていいほどライムが付いてくるので、ビンの口で絞りながらビンにライムを放り込んでいましたが・・・。現在ではビンにライムを入れると後で回収して洗瓶する時に取り出せなくて問題になるらしいのでなるべくしないように、というお達しも出ているそうです。皆さんもメキシコに行かれた際は、グラスに注いでからライムを搾るようにしましょう。ラパス滞在時、赤く染まるコルテス海を眺めながら飲むビールは最高でした。南国の暑さと湿度が残る空気を感じながら、ライムの酸味と苦み、そして軽い飲み口のさわやかなメキシコビールが喉を駆け抜ける瞬間は、今考えれば至福としか言いようのない時間でした。ああ、あの日に帰りたい・・・。(つづく)

※コルテス海…メキシコ本土とカリフォルニア半島に挟まれた海域。カリフォルニア湾とも呼ばれる。大航海時代に中米とメキシコを支配したスペイン人エルナン・コルテスにちなんで名づけられています。

 

有名なコロナビール

メキシコで一番人気のテカーテ

大ビール会社の名を冠したモデロ

個人的な一押しの

ソル(太陽)

第14回「プロレスラーの卵たちと」ラパス→マサトラン→メキシコシティ(メキシコ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちょっとおっかないという気持ちもあり、滞在期間も短かったので僕は個人的にプロレスラーの卵さんと話す機会はなかったのですが、ここのゲストハウスでの詳しい様子を描いた本があるので興味がある方はぜひ読んでみてください。(おそらく絶版になっているので、ネットで古本を買うしかないのですが・・・)

 

 

 

 

 ラパスから船とバスを乗り継いでマサトラン経由でメキシコシティへ。と、文章にするとたった一行ですが、船で1泊、バスの車中で1泊と移動だけで2泊3日の行程です。船は通路に寝転んで掛け布団だけというかなり過酷な環境でしかも結構揺れました…。バスもほとんどリクライニングしない普通の座席。しかも移動中も(あくまでもサービスで)夜中まで映画が大音量で流れているのではっきり言って寝られません。当時の日記によるとバスに搭乗した夕方から夜中まで映画が三本ぶっ通しで上映されたようです(涙)。そんなわけでメキシコシティに着いたときには結構フラフラになっていました。

メキシコシティ。都市圏全体の人口は1900万人。やたらと巨大な都市です。都市の経済規模は中南米で最大だとか。しかし旅行者にとってはそんなことはあんまり関係ないことでして…。どちらかと言うと、宿泊を予定していたペンションまで地下鉄で行かないといけなかったのですが、その地下鉄の中の治安がやたら悪いから気をつけたほうがいい、と聞かされていたので、その事に戦々恐々していました。バックパックを前に抱え込んでキョロキョロ周囲を見回していたので、相当挙動不審に見えた事でしょう(苦笑)。しかしその甲斐あって無事にペンションに到着。ここのペンションは、「ペンションアミーゴ」と言ってバックパッカーには非常に名の知れたゲストハウスです。他の安宿にない特徴としては、メキシコにプロレス修行に来ているプロレスラーの卵たちが集団生活をしているという点が挙げられます。ルチャ・リブレというメキシコスタイルのプロレスは現地で非常に人気が高く、日本からもたくさんの屈強な若者がメキシコへ渡っているのですが、そのプロレスラーの卵たちとやせ細ったバックパッカーが(主に滞在費を安く上げるという共通の動機で)同じゲストハウスで生活している様子はなかなかシュールでした(笑)。

ラパスからマサトランまで乗った船の外観です。チャーミングなクジラの絵が描かれているのがポイントです。それほど揺れなかったはずなのですが、床でごろ寝したので、ゴロゴロ転がって寝られたものではありませんでした。

船の甲板でごろ寝する強者メキシコ人のおっちゃん、おばちゃん。そのまま寝ころぶ人、ベンチで寝る人、様々です。僕はちゃんと室内で寝ましたよ。

『メキシコホテル-ペンション・アミーゴの旅人たち』

大倉直 著

旅行人出版

 中南米の長期旅行をする予定でメキシコにやってきた著者がひょんなことからメキシコシティの安宿ペンションアミーゴの管理人をすることになり、とても風変わりで訳ありなたくさんの旅行者たちと出会い、聞いた話をまとめた本です。世の中には海外に出ていく理由が、実にたくさんあるのだなぁとほとほと感心させられます。この中の一章でメキシコにやってくる日本のプロレスラーたちの話が書かれています。非常に面白いですよ。

第15回「ときには鍋で米を炊く」メキシコシティ(メキシコ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と言われた時は鈍器で頭をガツンとやられたような衝撃がありました。えっ、炊飯器がなくてもお米が炊けるんですか?その後、鍋で米を炊くことはすぐに当たり前のことになっていきましたが、はじめは本当に目から鱗でした。

 

 宿の近所のスーパーなどで先の尖がったカリフォルニア米を買ってきて、水加減の目安を教わり、火加減を調整して、弱火にして・・・ああ、ほんまに簡単に炊けるんですね。

炊飯器と言う文明の利器から自分が自由になれた瞬間として、このメキシコでの「鍋で米を炊いた一件」は長く記憶に残ることとなりました。

 

 ちなみに標高2240mに位置するメキシコシティでは、沸点が低くなるため米もパスタもやや生煮えというか、芯が残りやすくなってしまいます。これがさらに標高の高いペルーやボリビアの高地では、沸点が低すぎて圧力鍋を使わないとまともにお米が炊けなくなってしまうのですが、それはまた後のお話。

 中南米を旅するバックパッカーの中には、食費を切り詰めるために自炊する人がかなり多くいるのですが、やはり日本人としては当然のこと、時々は米が食べたくなります。その場合、もちろん炊飯器のような気の利いたものはないので、キッチンに転がっている凹んだ鍋などを使って米を炊くことになります。僕はメキシコで、ベテランのバックパッカーの方に炊き方を教えてもらうまで、鍋でお米が炊けるという発想すらありませんでした。お米は炊飯器で炊くもの、という固定観念が相当に強固なものだったのです。しかし、考えてみれば子供の頃のキャンプでは飯ごうでお米を炊いた経験もあるわけなので、鍋で米が炊けたってちっとも不思議ではないのですが、思い込みとは恐ろしいものです。で、そのベテランのバックパッカーのOさんに

「お米なんて鍋で炊くに決まってるじゃんか」

 

 

メキシコシティで泊まったペンションアミーゴの中。

階段の踊り場でくつろぐ猫ちゃん。

ワンポイントスペイン語講座:

  猫・・・オスはgato、メスはgataと言います。

第16回「プッシュバイカー」メキシコシティ(メキシコ)

 旅行中はなかなか日本では出会えないようなユニークな人と話をする機会が多いのですが、メキシコのゲストハウスにて鍋で米を炊く方法を教えてくれたバックパッカーのOさんも相当ユニークな人物だったので、ここでちょっとその人となりをご紹介します。

 まず彼のことをバックパッカーと書きましたが、本人曰く正確には「プッシュバイカー」と呼ばれる種類の旅行者だそうです。どんなスタイルかというと、要するに海外旅行であるにもかかわらず基本的に自転車だけを使って人力で旅行するのだそうです。「プッシュ=押す」「バイカー=自転車乗り」。つまり登り坂があったら自転車を押して移動しなければいけない、という自嘲的な意味もこめて彼らは自分たちのことを「プッシュバイカー」と呼んでいるのかと思ったら、オーストラリアではそもそも自転車の事をプッシュバイクと呼ぶそうです。

 さてそんなOさん。今までで最も過酷な旅行が、自転車のみでのアフリカ大陸縦断だったそうです(スケールが想像をはるかに超えていますが…)。ケニアのサバンナをのんびり入っていると、道沿いでライオンが昼寝をしていて、起こさないように緊張しながら通り抜けたことや、ジンバブエの首都ハラレの安宿に宿泊中、真夜中にマシンガンを抱えた強盗団が押し入ってきて身ぐるみ剥がれた話とか、とにかく平和な日本では考えられないような話をたくさん聞かせてもらいました。

 今回のメキシコ旅行は自転車なしでの、いわゆる普通のバックパック旅行だそうです。自転車なしなら荷物が軽くてさぞ楽だろうと思うのですが、自転車を愛するあまり、なぜか荷物の中に愛車の車輪を入れて、観光に行くときはせめてその車輪だけでも一緒に連れて行ってやろう、と考えていたそうです。実際、彼と一緒にティオティワカン遺跡にピラミッドを観に行ったときは車輪も一緒に連れて行き、ピラミッドの頂上で車輪とともに記念撮影していました(笑)。

世の中には自分の想像を超える人がいるんやなぁと深く感じ入ることになった(ある意味衝撃的な)出会いでした。

 

 

第16回

すみません…。観光地を撮影した写真がまとまって行方不明になっていまして、このティオティワカン遺跡の写真はネットから拾ってきました(涙)。エジプトのものと違って頂上まで自由に登ることができる、ちょっとずんぐりむっくりな太陽のピラミッドは人気の観光スポットです。

第17回「長旅コラム①:ガイドブックについて」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

南米は旅行者がものすごく多かったので、情報を集めるのはそれほど困難ではありませんでし

た。

 そして南米の後、できれば訪れたいなぁと考えていたヨーロッパは、やはりリュックに1冊だけガイドブックを忍ばせていきました。どのような内容のものかと言うと、ヨーロッパ中のユースホステルの地図が載ったガイドブックです。観光名所は全く載っていません。なぜそのような体裁の本を持って行ったかというと、やはり物価の高いヨーロッパでは気軽に安い宿が見つからないはずなので、ユースホステルの所在を知る事から旅がはじまると考えていたからです。

 

というわけで、この旅で僕が持って行ったガイドブックは、

① 地球の歩き方:中米編

② ヨーロッパ、ユースホステルガイド

以上の2冊です。

 

 旅行中に知り合った人の中には、世界各国の大使館や領事館留めで、その国のガイドブックを1冊ずつ郵送してもらっている凄い人もいました。旅のスタイルは人それぞれ。一番自分にあった方法を選べばいいと思います。それに最近は本ではなくて、世界中で使えるスマートフォンからリアルタイムで最新の旅の情報を取り出せる時代ですので、上記のようなガイドブックコラム自体が意味を成さないのかもしれません。でも意外とガイドブックなしでも旅行はできるものですよ。

あまり需要が多いとは思えない中米のガイドブックです。さすがにグアテマラとコスタリカ以外の国に関しては情報が少ないですが、それでも重宝しました。中米を出る時に他の旅行者に進呈しました。その分荷物も軽くなって一石二鳥。

アメリカのガイドブックを持っていなかったこともあり、一番はじめの目的地の予定だったロサンゼルスへは、道に迷った挙句たどり着けなかったのですが、では1冊もガイドブックを持っていかなかったのかと言うとそうでもありません。アメリカとメキシコに関しては簡単な旅情報のメモと街の地図だけコピーして、それで乗り切りましたが、ここからの中央アメリカエリアは旅行者も少なく、情報もあまりないため「地球の歩き方:中米編」1冊だけは持っていきました。この1冊に、グアテマラ、ベリーズ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマの7カ国の情報が(それなりに)載っているので、この辺りの国々を本格的に巡ろうと思っていた僕には非常に好都合なガイドブックでした。

しかしその後訪れるつもりだった南米に関しては、全く情報を持っていきませんでした。南米はガイドブックで全てをフォローするにはあまりに広大すぎて、またどこの国に行くかと言う事も全く決めていなかったので、エリアも絞りようがありませんでした。仕方なく現地で情報を集めながら旅行するという方法を採ることにしました。

中米編”前編”バックナンバー18話~36話

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